2017-02-01から1ヶ月間の記事一覧

[尊号真像銘文] また言わく、「互仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」(大経)と。

[尊号真像銘文] 「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる…

[尊号真像銘文] 「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえとなり。「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生に…

[尊号真像銘文] 「十方衆生」というは、十方の、よろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実と申すは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし。清浄の心なし。濁悪邪見の…

[尊号真像銘文] 『大無量寿経』に言わく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」文 「大無量寿経言」というは、如来の四十八願をときたまえる経なり。「設我得仏」というは、もしわれ仏をえたらんときとい…

[一念多念文意] 「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」というは、如来のちかいを信知すともうすこころなり。「信」というは、金剛心なり。「知」というは、しるという、煩悩悪業の衆生をみちびきたまうとしるなり。また知というは、観なり。こころにうかべおもう…

[一念多念文意] 信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたると、ちかいたまえるなり。これを「致」とすという。むねとすともうすは、涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、…

[一念多念文意] 「致使凡夫念即生」というは、「致」は、むねとすという。むねとすというは、これを本とすということばなり。いたるという。いたるというは、実報土にいたるとなり。「使」は、せしむという。「凡夫」は、すなわち、われらなり。本願力を信楽…

[一念多念文意] 『浄土論』に曰わく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまえり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむとのたまえり。「観」は、願力を…

この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を、南無不可思議光仏とももう…

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしえすすめいれたまうがゆえに、よろずの自力の善業をば方便の門ともうすなり。いま、一乗ともうすは、本願なり。円融ともうすは、よろずの功徳善根みちみちてか…

[一念多念文意] おおよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門という。これを仮門となづけたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部にときたまえる「定善・散善」、これなり。「定善」は、十三観なり。「散善」は、…

[一念多念文意] しかれば、『大経』には、「如来所以興出於世 欲拯群萌恵以真実之利」とのべたまえり。この文のこころは、「如来」ともうすは、諸仏をもうすなり。「所以」は、ゆえ、ということばなり。「興出於世」というは、仏のよにいでたまうともうすな…

[一念多念文意] 「上尽一形」というは、「上」は、かみという、すすむという、のぼるという、いのちおわらんまでという。「尽」は、つくるまでという。「形」は、かたちという、あらわすという、念仏せんこと、いのちおわらんまでとなり。十念三念五念のもの…

[一念多念文意] 一念多念のあらそいをなすひとをば、異学別解のひとともうすなり。異学というは、聖道外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり。これらはひちえに自力をたのむものなり。別解…

[一念多念文意] 「行住坐臥不問時節久近」というは、「行」は、あるくなり。「住」は、たたるなり。「座」は、いるなり。「臥」は、ふすなり。「不問」は、とわずというなり。「時」は、ときなり、十二時なり。「節」は、ときなり、十二月、四季なり。「久」…

[一念多念文意] 「一心専念」というは、「一心」は、金剛の信心なり。「専念」は、一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなを、ふたごころなく、もっぱら修するなり。修は、こころのさだまらぬをつくろいなおし、おこな…

[一念多念文意] 諸仏称名の誓願、『大経』にのたまわく、「設我得仏 十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」と願じたまえり。この悲願のこころは、たといわれ仏を得たらんに、十方世界無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、仏にならじと…

[一念多念文意] 多念をひがごとと思うまじき事 本願の文に、「乃至十念」と、ちかいたまえり。すでに「十念」とちかいたまえるにてしるべし。一念にかぎらずということを。いわんや「乃至」とちかいたまえり、称名の遍数さだまらずということを。この誓願は…

[一念多念文意] 「当知此人」というは、信心のひとをあらわす御のりなり。「為得大利」というは、無上涅槃をさとるゆえに、「則是具足無上功徳」とものたまえるなり。「則」というは、すなわちという、のりともうすことばなり。如来の本願を信じて一念するに…

[一念多念文意] 首楞厳院の源信和尚のたまわく、「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集)と。この文のこころは、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこさえて、みたてまつるにあたわずといえども、大悲ものうきことなくし…

[一念多念文意] 「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」はてらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむと…

[一念多念文意] 光明寺の和尚の御釈(散善義)には、「念仏の人をば、上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人」と、ほめたまえり。また現生護念の利益をおしえたまうには、「但有専念阿弥陀仏衆生 彼仏心光常照是人摂護不捨 総不論照摂余雑業業者 此亦是現生護…

[一念多念文意] また王日休のいわく、「念仏衆生 便同弥勒」(龍舒浄土文)といえり。「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」はすなわちという、たよりという。信心の方便によりて、すなわち正定聚のくらいに住せしめたまうがゆえにとなり。「同」…

一念多念文意

[一念多念文意] この真実信楽は、他力横超の金剛心なり。しかれば、念仏のひとをば『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり。竪ともうすは、たたざまともうすことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。横は、よこさまに、…

[一念多念文意] しかれば、「必至滅度」の誓願を『大経』にときたまわく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」と願じたまえり。また『経』(如来会)にのたまわく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」とちかいたま…

[一念多念文意] 「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。「願生…

[一念多念文意] 一念をひがごととおもうまじき事 「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」(往生礼讃)というは、「恒」は、つねにという、「願」は、ねがうというなり。いま、つねにというは、たえぬこころなり。おりにしたごうて、ときどきもねがえというなり。い…