[一念多念文意]
「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」はてらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。「此亦是現生護念」というは、このよにてまもらせたまうとなり。本願業力は信心のひとの強縁なるがゆえに、増上縁ともうすなり。信心をうるをよろこぶ人をば、『経』(華厳経)には、「諸仏とひとしきひと」と、ときたまえり。