[一念多念文意]
また王日休のいわく、「念仏衆生 便同弥勒」(龍舒浄土文)といえり。「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」はすなわちという、たよりという。信心の方便によりて、すなわち正定聚のくらいに住せしめたまうがゆえにとなり。「同」はおなじきなりという。念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒とおなじきひとともうすなり。また『経』(観経)にのたまわく、「若念仏者 当知此人 是人中 分陀利華」とのたまえり。「若念仏者」ともうすは、もし念仏せんひとと、もうすなり。「当知此人 是人中 分陀利華」というは、まさにこのひとはこれ、人中の分陀利華なりとしるべしとなり。これは如来のみことに、分陀利華を、念仏のひとにたとえたまえるなり。このはなは。「人中の上上華なり、好華なり、妙好華なり、希有華なり、最勝華なり」(散善義)と、ほめたまえり。