一念多念文意

[一念多念文意]
この真実信楽は、他力横超の金剛心なり。しかれば、念仏のひとをば『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり。竪ともうすは、たたざまともうすことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。横は、よこさまに、というなり。超は、こえてというなり。これは仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、真実報土のきしにつくなり。「次如弥勒」ともうすは、「次」は、ちかしという、つぎにという。ちかしというは、弥勒は大涅槃にいたりたまうべきひとなり、このゆえに、弥勒のごとしと、のたまえり。念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにというは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚のくらいにいたりたまうべしとなり。「如」はごとしという。ごとしというは、他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。『浄土論』(論註)に曰わく、「経言「若人但聞彼国土清浄安楽 剋念願生 亦得往生 即入正定聚」此是国土名字為仏事 安可思議」とのたまえり。この文のこころは、もし、ひと、ひとえにかのくにの清浄安楽なるをききて、剋念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。これはこれ、かのくにの名字をきくに、さだめて仏事をなす。いずくんぞ思議すべきやと、のたまえるなり。安楽浄土の不可称・不可説・不可思議の徳を、もとめずしらざるに、信ずる人にえしむとしるべしとなり。