[一念多念文意]
信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたると、ちかいたまえるなり。これを「致」とすという。むねとすともうすは、涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを致使凡夫念即生ともうすなり。二河のたとえに、一分二分ゆくというは、一年二年すぎゆくにたとえたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて、即生するをむねとすべしとなり。