[一念多念文意]
「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」というは、如来のちかいを信知すともうすこころなり。「信」というは、金剛心なり。「知」というは、しるという、煩悩悪業の衆生をみちびきたまうとしるなり。また知というは、観なり。こころにうかべおもうを、観という。こころにうかべしるを、知というなり。「及称名号」というは、「及」は、およぶというは、かねたるこころなり。「称」は、御なをとなうるとなり。また、称は、はかりというこころなり。はかりというは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなうべし」となり。これは多念の証文なり。おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたまうべし。
 南無阿弥陀仏
 いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき、愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえしとりかえしかきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかえりみず、ひとすじにおろかなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。
 康元二歳丁巳二月十七日
  愚禿親鸞 八十五歳 書之