[一念多念文意]
「致使凡夫念即生」というは、「致」は、むねとすという。むねとすというは、これを本とすということばなり。いたるという。いたるというは、実報土にいたるとなり。「使」は、せしむという。「凡夫」は、すなわち、われらなり。本願力を信楽するをむねとすべしとなり。「念」は如来の御ちかいをふたごころなく信ずるをいうなり。「即」は、すなわちという。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらいにさだまるを即生というなり。「生」は、うまるという。これを「念即生」ともうすなり。また「即」は、つくという。つくというは、くらいにかならずのぼるべきみというなり。世俗のならいにも、くにの王のくらいにのぼるをば、即位という。位というは、くらいという。これを東宮のくらいにいるひとは、かならず王のくらいにつくがごとく、正定聚のくらいにつくは、東宮のくらいのごとし。王にのぼるは、即位という。これはすなわち、無上大涅槃にいたるをもうすなり。