自分の知っている人に真宗のお坊さんであるのに、今の真宗教学に疑問を持って課題を投げかけている人がいる。自分が感じることは、その人は真宗聖典をよく読んでいるということである。
 法話を聞くということは、説教師から真宗のことを教えてもらうことになるが、そのときの説教師さんの教学の理解の仕方が問題となる。自分も最近わかったことであるが、「二河白道の譬え」も善導大師の観経疏の原文と親鸞聖人の「教行信証」のそれとは、かなり違っている。法然上人の選択集でも微妙に違うが、善導大師のものとほぼ同じで、親鸞聖人は、かなり変更の意図がある。そこに真宗の本質が隠されている。
 先のお坊さんの主張は、「大学で数年も学びながら、多くの人(坊さん)が教義に自信がない最大の原因は、僧侶ひとりひとりの問題よりも、教学が壊れていることにあるのではないか。」
 なぜ、僧侶が念仏を称えなくなってしまったのか。その原因が教学にあるという。

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ここから先は、その人の書いたものを読んだ自分の思いですが、
 一つだけ引用されていた例をあげると、自分が今まで説教師さんに聞いて納得していた譬えに「けい蛄は春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」というものがある。その意味はと言うと、
『けい蛄は蝉、朱陽の節とは夏のこと。夏に生まれ春も秋の知らずに死んで行く、夏しか知らないセミが、どうして夏を夏として認識できるのかという(凡夫が凡夫と知らず迷っていることの譬え)』のように説かれている。納得できるし、一般的には間違いではないだろう。
 しかし、曇鸞大師の浄土論註の中には、
「もし心(しん)を凝らし想(おもい)を注げば、また何によりてか念の多少を記することを得べき。」
 と念仏の回数はどうすればよいかと尋ねたのに対して
「答えていはく、『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。必ずしも、頭数(ずしゅ=念仏の数)を知ることをもちいず。『けい蛄は春秋を識らず』というがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいうのみ。」
 と記述されている。ということは、必ずしも数を数えねばならないわけではなく、念仏に集中して称えれば、今何回目かなどということも考えられなくなる。まるで、蝉が夏であることに気づかないで、夢中に鳴いているかのように。夢中で鳴いていれば夏だということにも気づかないであろう。そこまで行っていないものが数にこだわるのだ。
 この意味は、法話で聞いてきた意味とはちょっと違う。法話では悪いことの譬えに使われるが、出典ではどちらかというと良いことの譬えである。親鸞聖人も教行信証信巻(真宗聖典p275)にまるまる引用されているので、この譬えを前者の意味で法話に使っているならば、間違いであると言わざるを得ない。
 今まで言われてきた法話は、出所や意味が適切であったかどうか。また、「二河白道の譬え」のように書き換えられたものの意味をちゃんと受け止めているか。そんな検証から、今自分が説いている真宗の教えは親鸞の教えなのか善導の教えなのか、あるいは蓮如の教えなのか。ここははっきりさせておかねばならない。当り前なことだが「親鸞聖人」の意図する教えが浄土真宗なのだ。
 しかし、教えは進化していくもので、時代とともに原理をずれて存在することも有りだと思っている。それにはその自覚が必要ではある。(それゆえ大谷派蓮如教学だと言われることも多い)
 今の法話は、あまりにも飛躍しすぎているかもしれない。「自分は自分であればいい。」とかは親鸞聖人のどこから言えるのか。自分が言いたい事を御聖教の中に探して法話する。そのような試みも面白い。親鸞に帰る、である。
 そして、その友人は云う。「親鸞聖人の教えは、全く簡単なことですよ。『念仏しましょう』これ一つです。」