教行信証の勉強をしてもなかなか意味がわからないのですが、歎異抄でさえも最初は一年間全く歯が立たなかった(読み通すことも出来なかった)ことを思い出します。
今日、聖典の御自釈だけを読んでいたら、行巻と信巻に興味深い言葉があることに気づきました。
何年か前に高田本山で御自釈だけを抜き出した冊子を購入したのですが、それがどこへ行ってしまったのか見つかりません。
  
今見つけました。
―教行鉦文類の御自釋を資料として―
真宗教義の構造と他力信心のこころ」 松山智光著 (2003年9月1日)

内容は「はじめに」というこの本を編集した目的が書かれ、次に「御自釋の中の核言」(原題そのまま)という項目で重要だと思われる言葉が引用され、そして最後には御自釋だけを総て書き出して「資料」としてある簡単なものですが、自分はその試みが非常に面白いと感心しました。(で、すぐに購入したのですが、定価が入っていません。法話のときに持ってきてくださった非買品だったようです。)

 御自釈の中で「知るべし」という言葉を、かなり頻繁に使っています。
「べし」の解釈は難しく、推量・命令・当然・可能・意志といろんな意味があります。
知るだろう・知りなさい(知れ)・知らなければならない(知っているはずだ)・知ることができる・知ろう
のどれかということになります。
 「知らなければならない」が適当かとも思いますが、蓮如上人の「念仏申さるべし」は「念仏申そう」の意志の意味だと聞きました。だとすると、「知っておこう(記憶しておこう)」と自分に言い聞かせているのかも知れません。
 
 そして、信巻には「あきらかに知んぬ」とか「まことに知んぬ」という表現が多く出てきます。
 「知った」という完了形だと思いますが、そうすると、「知るべし」は当然の用法「知らなければならない」の方がしっくりくるような気がします。
 一般的には「知りなさい(知れ)」も良いように思います。しかし、親鸞聖人にそのような上から目線の考え方はないだろうということで、命令形は取らないようです。その考え方を無視すると、師が「知りなさい」と指導して、信の巻で私はこのように「すでに知りましたよ」と結果を教えている、そのようにも取れなくもありません。
 意志の意味で「(一緒に)知ろう」というところから、私は「すでに知りました」となる考え方も出来るでしょう。
  
 いずれにしても、「知るべし」、「知んぬ」の語句が多く出てくるということは、親鸞聖人はそこが言いたいということだと思います。押さえるべきところは「知るべし」、善知識の先達としての親鸞聖人が知りえたことは「知んぬ」、そんな捉え方が出来るのではと思い、すこし検討してみました。信巻に「知んぬ」が多く見られるのは、信心が重要な証拠でしょう。
 「教行信証」は引用文を除くと思いのほか短い文章になります。
そんなところから教行信証に当たっていけば、少しはとっつきやすくなるかな?くらいに思いました。
 (ここでの考えは全くの私見です。参考にした文献もございませんので悪しからず)