浄土真宗論 西村邦彦著 法蔵館 
親鸞聖人はなぜ浄土真宗を謹んで案ずるのか。一つは国家権力に屈従しながら、他の宗派から自らの宗派を独立せしめ、宗義を相続するために営々としてきた徳川封建時代の宗学に沿って謹んで案ずる。二つには苦悩する諸有の衆生のために謹んで案ずる。
前者を宗学といい、後者を教学と呼ぶ。宗学は宗派を独立せしめ、仏教各宗派と肩を並べてその中だけに通用する学問である。宗学の教理体系が衆生現実の苦悩を救わない」
と手厳しい。
親鸞の「教行信証」の難問・課題を、その一言一句を現代の珠玉にまで磨き上げて無量光明土を現代に開顕することが教学の仕事である、と宗学と教学をはっきりと区別している。それというのも、大谷派は昭和31年に宗門白書で宗学と教学との分離を表明しているからである。本派にはこの区別は無いということである。
宗学に対する師の批判は激しいが、それは宗門の危機を憂いているように見える。自宗派の批判から述べられる文章は興味深く、また知らないことも教えられる。例えば、相続講というもの。真宗勉強歴10年の自分は念仏相続の真面目な法会だと思っていた。しかし、厳如時代に官軍に献金した膨大な借金を返すために考えられた装置だとは知らなかった。そういえば、最近は相続講はあまり見かけなくなっている。
もっと驚いたことには(宗門内では当たり前に知っていることかも知れませんが)暁烏敏師は明治天皇崩御の際し天皇阿弥陀仏の権化と仰ぐという記事を『精神界』に掲載し、軍閥華やかなりし頃、南無阿弥陀仏天皇陛下万歳だといったそうである。これではいくら親鸞の浄土を法話しても聴く方は嘘臭くて興ざめである。国家真宗と呼んでいる真宗が戦争に加担したとおぼろげに聴いていたが、実際にこんなこと(もっと具体的なことも言っていたのだろう)を言っていた。
昔のことを知っている方の率直な事実関係の歴史を教えてもらえることは少なくなっている。貴重な本(著者)との出会いであった。