昨日は、沙加戸弘師の講座を聞きに行ってきました。
  
 
講談調の語り、聞いている人はその音量に寝てはいられないと言っていました。
もちろん、その話の内容も興味深いからです。
「いのちはひとつである」という命題に、ポカーンとする聴聞者に、
いのちの起源はアメーバにまで遡る、科学的にも一つであることの根拠となると、
ある意味納得の説明。ただ、現在はいのちは地球の外部からもたらされたという説もあるらしい。
それこそ如来かもしれない、と自由自在に語りを広げていく。
 
1173年に親鸞聖人は生まれたか? 
違う。親鸞聖人という人は、その時代とそこに生活していたひとの声を聞いて成ったお方である。
1173年に生まれたのはひとりの人間の赤ちゃん。
膨大な数の思想家のてっぺんに人々の声に応えて現れたお方が親鸞聖人と成った。
親鸞聖人という方は真宗の働きの名前である。
富士山のふもとの石ころも富士山であるように、
その時代の全ての人が親鸞とともに働いている。
  
同じようなことで、538年仏法伝来というが、仏像は来たかもしれないが、
仏法が日本に来たのは本願念仏の教えが伝わったときだと言う。
真宗」の「真」とは偽りの無い、「宗」とは生き方である。
真宗を教えてもらったときが仏法の伝来であり、その恩に報いることが報恩講である。
 
そんな話が続くと、ついつい聞き入ってしまう。

 
余談で、沙加戸という名字の由来を語った。変わった名前だとは思ったのだが、理由があった。
もとは粟津という名字があったが、回りがみんな同じ名前だったので、申請するときに沙門(しゃもん)
という名字を名乗り出たという。漢文のできる役人が沙門とは僧のこと、八百屋が八百屋といっているの
と同じという理由でで却下となってしまった。そこで気の短かった先祖が、その場で門の字をカド
と読んで、加戸の字をあてた。こうして沙加戸=さかどという名字が誕生したとか…。
 
午後の後半は、絵伝の絵解きだったのですが、
10分ほど経ったときにお客様を店に連れて行くという電話が。
絵解きについていろいろ聞きたかったのですが、
後ろ髪引かれる思いで、その場を離れました。
またのご縁というものがあるものかどうか、今回は残念でした。