「『いつでも、どこでも、誰でも必ず救う、我にまかせよ』と誓われた阿弥陀如来の慈悲に出会うとき、どんな時も、どんな境涯でも安心して生きられる」ということを法話ではよく聞きます。そうであるなら、万々が一将来戦争になっても、聖人が流罪を縁としたようにその縁を喜び、念仏広めるのが真宗なのではないですか?と問うたら、「戦中にそのように説く布教師がいて、宿縁だから仕方がない、受け入れるしかないというのは間違っている。人間が決めたことで誤っていることは、命のある限り反対し続けねばならない」と言われてしまいました。
何か腑に落ちないのですが、お互いに言いたいことが噛み合っておらず、伝達しきれずにその場は終わってしまいました。
自分は戦争に反対することや原発に反対することは、宗教とは違うような気がします。人間の判断であり、政治であり社会システムの問題です。それは良くなるものは良くしていかねばなりません。しかし、結果的に悪くなってしまった状況で、真宗門徒は本当に喜べるのかという課題なのです。
 
そんなことを考えていたときに、たまたま法話で住職継承の前住職からの一言に「このお寺には内陣とお内仏とに御本尊が2体ある。それを命を懸けて守っていってほしい。その他のことは何をやっても構わない。」と言って住職を受け継がれたというお話がありました。本尊を命を懸けても守れということは、本尊の危機には命を張って抵抗せよ、本尊を破壊しようとするものとは戦え、ということではないかと思ってしまいました。
命より本尊が大事と言うことです。
それで気づいたことがあります。いま、国家の危機には命を張って国を守れと言うことを言います。これは命より国家、国体が大事ということであり、神道の教義なのではないかと。
イスラム教徒はニュースなどを見ても分りますが、コーランを命を懸けて守ります。
構造が同じなのです。「命より大事なものがある」という法話には、自分が思っていた以上に宗教的まやかし(都合)があるのではないだろうかという疑問が出てきました。
 
各立場によって守りたいものがあるのも事実です。その都合に乗ってはいけないと思います。
今、国家のために国民は命を懸けて国を守れというのは、神道国家の一大事なのでしょう。私たちは仏教徒です。「いのちは生きようとするもののものであり、何人もそれを奪ってはならない」という原則があると思います。もともと戦争する権利など無いのです。
浄土真宗の場合、命を懸けて守るのは1体2体と数えられる本尊ではないと思います。現実問題として、破損・紛失等すれば本山から処罰されるようですが、それは宗派の都合です。もともと方便法身ということもありますが、親鸞聖人は、身を粉にしても、骨を砕きても、と言った対象は、恩徳であり、恩に報いよと言われます。必ず救うと誓われた如来大悲の恩徳と、その法義を相続してくださった祖師の恩徳に対して命を懸けて感謝し報いていきましょう、ということは命を懸けて相続継承していきましょうと言うことです。脅かすものと戦ってでも何かを死守せよというものではないのです。
 
真宗門徒は、どんな状況においてもたとえ戦争(地獄)になっても法義相続を喜んで生きていけるということと、戦争に反対するということは相反することでは無いと思います。むしろ別々の問題としてはっきりさせないといけません。
どんな状況に置かれても喜んでいけるかという問題は、覚悟できたかという信心の問題だと思います。その覚悟のような諦めに気づかしていただき、信心獲得できる利益を、一声の念仏は持っているのだと自分は思うわけです。
(『真実信心は必ず名号を具す。名号かならずしも、願力の信心を具せざるなり。「教行信証」信巻』と言われますので「ただ念仏」と言いながらも簡単なことではありません。)