命題の真偽

お寺の掲示板を紹介するサイトに

『不幸を知らない人は、幸福を知らない

 悲しみを知らない人は、喜びを知らない』

というのがありました。少なからずの「いいね」を集めていましたが、自分にはこれは正しい命題かどうか、すぐにはピンときませんでした。

1、不幸を知らない人は、幸福を知らない     AならばB 
2、幸福を知らない人は、不幸を知らない     BならばA 「逆」
3、不幸を知っている人は、幸福を知っている   AでなければBでない 「逆」
4、幸福を知っている人は、不幸を知っている   BでなければAでない 「対偶」

 逆は必ずしも真ならず、といわれるように、この場合の2,3の命題は根っからの不幸者がいるとしたら、いずれも偽でありそうです。問題は、掲示板の言葉1が、完全に真かどうか?
 最初の命題1が真ならば、対偶の命題4は必ず真なので、この命題は、幸福を知っている人は必ず不幸を知っている=不幸を知っている人の一部の人が、幸福を知っているということになります。すぐに分かることですが、不幸を知らなくても幸福な人はいるわけで、あきらかに間違いだと思います。
 幸福とか不幸というものは、あくまで幸福感、不幸感であって、これが幸福、これが不幸と決められるものではありません。幸福と不幸には関連が無いように思われます。そこにこの命題の間違いがあったように思われます。
 『不幸を知らない人は、他人の不幸がわからない』ならまず真のような気がします。(気がするというのは、自分の不幸と他人の不幸は違うと言えなくもなく、共感とか難しいのが本当のところだということです)
 あなたが幸福だと思っている幸福は、実は幸福ではないのだよ、と気づかせる目的あるいは、不幸を知らずに幸福だと思っている人は、「本当の幸福」を知らないのですと言っているのでしょうが、幸福の定義が各人で定まっていないために、ちょっと待てよという違和感が生まれたのだと思います。
 「本当の幸福」を「絶対の幸福」と呼ぶ新宗教もあります。上記の掲示板の言葉からは、我々の宗教の無上の幸福を得るためは、不幸を味わったものしか到達できないのですよという、新宗教よろしく、上からのメッセージみたいなものを暗に感じ取ってしまいました。
 『不幸を知らない人は、幸福を知らない』(『悲しみを知らない人は、喜びを知らない』も)が正しい真の命題かどうか、よくよく考えてみる必要があると思いました。
 ただ、真偽を無視して、自分の幸福感を、阿弥陀様が正してくれているのだと受け取ればいいのかも知れません。

気になってすこし考えてしまいました。