「生かされて生きる」を考える

 倫理関係の本の中に、「生かされる」という言葉が出てきました。宗教的には「生かされて生きる」ということはよく言いますし、全く違和感はありませんでしたが、その本では、不幸にして重度の昏睡状態に陥ったりした場合を文字通り「生かされている」状態であると言っていました。そのように生かされている状態には自由な意思はありません。
 法話で、「生かされて生きている」と言われることはどういうことだろうかという疑問が出てきました。よくよく考えて見たら、「生かされる」という生き方には意識も意思も無く、主体性が無いと見ることが出来ます。

 「生かされて生きる」の「生かされて」というのは、目に見えない大きなはたらきによって生かされているということです。浄土真宗では、眼に見えない大きなはたらきのことを、阿弥陀如来の本願力(他力)と受け取っています。ですから、私たちは、阿弥陀如来の本願力(他力)によって生かされている、だから、生かしてくれている阿弥陀如来に感謝する心が起こるという方程式が成り立つのです。
  実は、ここでいう「阿弥陀如来の本願力(他力)」というのは、あくまでも私を浄土に生まれさせるはたらきのことです。真宗の他力は、阿弥陀様が何かをしてくれたりとか、自律神経によって心臓が勝手に動いているとか、社会生活における他人の援助ではありません。私を浄土に生まれさせるはたらきのことです。極楽浄土に生まれ往かせる。そこには、こっちはイヤとか、あっちが良いという自由はありません。人間として生きている現在「生かされている」ということは、浄土往生に向かって生かされているということであり、「生かされている」ことを体解することが、浄土往生決定ということなんだと理解しました。


 『浄土往生に向かって生かされて、此の世を生きる』

 「生かされて生きる」の「生かされて」は、我々には理解しがたい「絶対他力」の言葉だったということに気づかされました。