廻向とはサンスクリット語で、‘パリナーマ’と言い、「向かう」「そらせる」という動詞からできた言葉である。そこで、廻向は自分の修めた善を他にむかって差し向けることを表わす。現在では、生存する者が死者を供養して、善を振り向けることを「廻向」という。
 大乗仏教では、自は自でありながら自ではなく、他は他でありながら他ではないという、一即多、多即一という立場にすわりを置くから、「自業自得」を前提とする業の思想は、大乗仏教には必ずしもぴったりとはこない。そこで、業の思想は敬して遠ざけられることになり、ここに新しい生き方が提案された。それが「廻向」である。
 大乗仏教は自即他、一即多という「空」の立場に立ち、私は因陀羅網の結び目の一つであって、この私という結び目はすべての結び目にある宝玉に映されていると同時に、私の結び目の宝玉は他のすべての結び目にある宝玉を映しているという世界観にこそ、初めて廻向の思想を形成し得たのである。
 たとえば浄土教も、こうした廻向の思想の上に立って初めて成立する。衆生の修すべき善業を、無量劫にわたって阿弥陀如来が私たちに代わって修してくれ、それを私たちに廻向してくれているから、私たちはその阿弥陀如来の呼び声に応じて「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよい。自業自得は自力であるが、これは他力である。
 
 「廻向」という言葉はなかなか分かりにくい言葉である。もとは生前供養の廻向であったから、何とか理解できるし、法事そのものも廻向をしているのである。施餓鬼などでお寺さんにも廻向をお願いする。このような行為は「善を振り向ける」ということで「廻向」だと納得できる。しかし、親鸞聖人はそれを真っ向から否定した。廻向をする力は我々衆生には備わっておらず、あくまで廻向は、「如来の廻向」であるとした。その如来廻向に二種あって、一つは「往相廻向」、もう一つは「還相廻向」である。往相も還相も如来の廻向だという。本誓悲願により、必至滅度の大願を起させるのが往相廻向。菩薩を極楽浄土に生まれさせ必ず一生補処にいたらしめんというのが如来の還相廻向である。なかなか分かりにくい。
 これらの廻向に行者の願いや行いは関係ないので、他力という。「他力には義なきをもって義とす」といういわれである。ますますもって分かりにくい。
 
 衆生が生きている意味は「他力廻向」からどう導きだせるのだろうか?