ただ念仏の救い

テーマ「ただ念仏の救い」について
歎異抄』2章に、親鸞聖人は「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」とある。
「ただ」にはいろいろな漢字があるが、大きくこの二つが考えられる。
唯 ひたすら,もっぱら
只 ただ、たった、単一の、ただそれだけ、こればかり、普通、無料
普通に考えると。「唯」。唯信抄とかよく使われる漢字である。
 
「唯、念仏」とは、一心一向に南無阿弥陀仏
 
「救い」とは、安心の生活。行き詰まることの無い生活。当たり前の日常生活のまま、これでいいと思える生活。
「ただ念仏の救い」とは、朝から晩まで念仏称えずにはいられない。それによって、行き詰まることの無い安心が与えられるという。それは正定聚の位に住するということであり、信心が身についた姿である。二度と迷いの世界に戻ることの無い境地を獲得したのだ。
 
「ただ念仏の救い」への道
阿弥陀如来の清浄なる世界に生まれさせてもらうには、念仏しか他に道はないのである。
他力の信心を頂けば、必ず明るい人生が開ける。
「念仏すれば、必ず救われる」の意味であるが、ただ念仏すれば救われるかといえば救われないのである。
御文さまにそのことは度々戒められている。
念仏しているうちに、その「いわれ」と「すがた」を見出すことが出来た時に明るい人生が開けるのだ。
明るい人生が開けるということは、空しくない人生が送れるということ。
説明が難しいところだが、それは往生への道とでもいうものであろうか。
 
摂取不捨:ニグルモノヲオアエトルナリ
わたしたちは、「念仏すれば、必ず救われる」といわれても疑ってかかる。
「いいです。いいです。」と言って逃げて行く姿勢である。その姿勢のまま状況に応じて心ならずも南無阿弥陀仏と称えているのである。阿弥陀様は、そんな逃げるわたしを追いかけて救い取るというのだ。
  
その救いを他力(阿弥陀の仏力)という。他力の信心を頂いた者とは、「難しいことではありません。ただ教えを尋ねて行くと、わたしは毎日やっていること、話していること、考えていること、すべてにわたって自分中心の狭い世界を離れることができません。そのような者だということがはっきりし、どうにもならないわたしだと気づいたら、そんなわたしでも生き生きと明るくさせようというのが阿弥陀仏誓願は、五濁末代の世にわたしが救われる唯一の道です。念仏して弥陀に助けられまいらすほかに他の諸仏による救いの手立てはないのです。そう信じられたら南無阿弥陀仏と頭が下がり、摂取不捨の利益にあずかることができるのです。」
つまり、
私はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ。
阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂取したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得としれ。
 
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と歎異抄には出てくる。
 
機法一体の心である。

では、なぜ、「南無阿弥陀仏」を称えるのかというと、
善導の六字釈に「又曰く、南無というは、即ち是れ帰命なり、亦是れ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは即ち、是れ其の行なり。斯の義を以ての故に、必ず往生することを得」とある。
阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。南無阿弥陀仏には願と行がすでに具わっている。
聞こえてくる南無阿弥陀仏の声は、諸仏称名の声であり、その声が聞こえてくるところに本願成就の証がある。そして声となって私のところまで来てくださる阿弥陀仏の姿がある。
 
ここまで、感得したら、ただ念仏の「ただ」の味わいは、「唯」のほかに「只」の意味である「たった」「それだけで」ということに移行したい。お説教で阿弥陀様が五劫思惟の修行の果てに考え付かれた手立てである「念仏」を「タダでもろうてくれやと差し出しているにも拘わらず」という文言がでてくる。タダの貰い物の念仏だと。念仏に執着しない念仏だと。そこには唯、阿弥陀様の願いが込められているのだ。そんな受け取り方が有り難い気がする。
 
 
因みに法然上人と親鸞聖人とでは、その受け取りに違いがある。
善導の書を見た浄土宗の開祖法然は、南無阿弥陀仏と唱え阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いた
が、法然の弟子であった親鸞は、これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師法然とは異なる理解をした。