「教行信証(信)」p.221(23)
 (般舟讃)また云わく、敬いて一切往生の知識等に白(もう)さく、大きに須らく慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり、種種の方便をもって我等が無上の信心を発起せしめたまえり、と。
高僧和讃
 釈迦弥陀は慈悲の父母
 種種に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり
とあるところである。
 「往生を願うすべての同行に申し上げる。わたしたちは大いにこれまでの罪を恥じなければならない。釈尊はまことに慈悲深い父母である。さまざまな手だてをもって、わたしたちに他力の信心をおこさせてくださる。」

 『集諸経礼懺儀』よって、大切な文を次に引用する。
「二つには深心。すなわちこれは真実の信心である。わたしはあらゆる煩悩を持っている凡夫であり、善根は少なく、迷いの世界に生まれ変わり死に変わりしてそこから出ることができないと信知し、いま、阿弥陀仏の本願は、名号を称えることわずか十声などのものや、ただ名号を聞いて信じるものに至るまで、必ず往生させてくださると信知して、少しの疑いの心がない、だから深心というのである。(中略)
 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じて喜び、疑うことがなければ、みなその浄土に往生することができる。」
 
 『阿弥陀仏の名号のいわれ』から六字釈の話となった。
 『観経疏』玄義分の言葉を「行の巻」に引用している。
『また云わく、「南無」と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」と言うは、すなわちこれ、その行なり。この義をもってのゆえに、必ず往生を得、と』
 真宗の御本尊は阿弥陀仏である。御絵像、仏像の場合には、「阿弥陀仏です」と言えるが、名号本尊の場合には、「南無阿弥陀仏です」と言うことになる。
 さぁ、ややこしい。
 字を書く場合、「阿弥陀仏」と書いて本尊とすることは出来ないのです。そのいわれを善導の六字釈に引いているということなのでしょう。
 では善導の六字釈は何を言っているのでしょうか?
『「南無」には発願回向の意味があり、「阿弥陀仏」には、その行の意味がある。』

 浄土往生のためには、普通はわれわれが『行』をして、それを成就しなければ往生は叶わないと考えます。そうするとそのような人はほとんど居らず、「行」の途中で人生終わってしまい中断する人ばかりとなります。そのような人のために、仏様が自ら娑婆に迎えに来てくださるのが来迎です。自力他力半々というところでしょう。わたしたちはここまではわかりやすいのです。浄土宗は来迎の教えです。良い事をして来迎を待つ、追善供養で良いところへ行かせてもらえる。
 しかし、真宗はそれでは満足できません。人生の終わりまでの有限の時間さえも「行」が続かず、「行」の真似事さえできない、駄目人間がわたしなのです。すなわち、
『わたしはあらゆる煩悩を持っている凡夫であり、善根は少なく、迷いの世界に生まれ変わり死に変わりしてそこから出ることができないと信知す。』ということです。
 そうすると、極楽往生などほど遠い、絵空事となってしまいます。そこで善導が考えたのが、阿弥陀仏の方が『行』をなさって下さっておられる。御名を称えることでその弥陀の行によってわたしは往生できるのだというのです。
 阿弥陀仏に帰命することが最低の条件で、十声称えるもしくは聞くだけでも条件が満足されて往生が叶うという。

 説明がへたで余計にわからなくなってしまったかも知れませんが、このような考え方で称名念仏による往生が得られるという。だから、帰命を意味する南無が必ず付かなければならないのです。

 ???
 

 南無○○という言葉は、昔からあったのであろう。「南無阿弥陀仏」の言葉は観無量寿経にあるくらいなので、お釈迦さまの頃からあったかもしれない。だから、善導はその言葉に独自の解釈を付けた。そこまでは研究であったのであろう。
 真宗の本尊として爆発的に普及したのは、なんと言っても蓮如上人の影響だったと思われる。
 どうも「南無阿弥陀仏」の御本尊は、善導の六字釈の意味を持つかも知れないが、実際は蓮如上人以前にちらほら見られたかも知れない六字名号を、蓮如上人が真宗の本尊は「南無阿弥陀仏」と決めた、そのことで普及したのではないだろうか。その証拠ではないが、現在六字名号を本尊にすることは、真宗のどの派でもほとんど無いと思われる。

 蓮如上人の考案は衝撃的だったのであろう。日蓮上人は「南無妙法蓮華経」を本尊にもってきて、2分する勢いとなった。ここで、自分が興味のあることであるが、明恵上人もこれを苦苦しく思って、独自の本尊(心のよりどころ)を造ることを試みたのだと思う。それが「阿留辺畿世宇和」である。サンスクリット語の音写「南無阿弥陀仏」を完全に冷やかしているようにも見える。もし、この仮定に可能性があるならば、そのような明恵上人の姿勢に大賛成である。自分はこの自然界に「生かされて生きている」と思えるはたらきに、それを実感できるような適当な言葉はないものかと探し続けている。それこそが本当の「南無阿弥陀仏」だと思うから。もしかすると言葉は無くてもいいのかも知れない。

 六字の名号「南無阿弥陀仏」のいわれは、いずれにしても一般門徒には難しすぎる。もっともっとわかりやすく説けるように、説く人が勉強して研究して、衆生往生の利他行の一役を担ってもらいたい。

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 ちなみに、
 『お念仏は「横はいり」の道具です。浄土への「横はいり」の効用を実感すれば、当然有りがたいお念仏を使用するでしょう。
 念仏するかしないかは、その効用を実感しているかどうか、便利な道具があっても、興味を示さずに拒否する(邪定聚)、興味を示してやってみるがまだ効用がわからない(不定聚)、その有用性に気づきすすんで取り入れる(正定聚)の段階がある。
 自転車が有っても乗りもしない、「便利だから乗れるようになろうよ」と言っても練習が嫌だとかで拒否する(邪定聚)、練習して転ぶ段階、本当は便利だけれども使いこなせない(不定聚)、練習した結果、自由に乗りこなせるようになり、その便利さを実感する(正定聚)。』

 こんな喩えで念仏の意義を説かれた方がいたが、「南無阿弥陀仏のいわれ」の説明よりはずっと共感できる。「阿弥陀の行」という説明はよっぽど自分で消化してからしないと、一人ぼっちになってしまう可能性がある。教学研究所でうまい説き方を研究してはどうだろうか。
 多分うまく説明できないのは、どこかに曖昧なイメージが引っかかっているためだと思われる。「阿弥陀の行」とは何なのか。もう一度自分が納得できるように考えてみてはと思う。
 いつものことですが、外から見れば(わたしの主観的思考では)「阿弥陀の行」理論は、理解しがたく、納得しづらい。やさしい言葉で飛躍しないで、厳密に説明して欲しいものです。説明できないところは、これが宗教ですと言うのなら、その方が納得がいくのですが…。

 来年の今ごろ自分の思考がどこまで深まっているか、または振り出しに戻っているか、本当に楽しみです。