5/8(金)三河別院で2009年青少幼年問題学習会:
心理学の浸透する社会をどう考えるか
「心の専門家」の普及・浸透は、人がものを考える習慣を確実に衰退させる:『「心の専門家」はいらない』(小沢牧子著)より 
 という小沢牧子さんの講演会&座談会があります。
 「心のケア」について疑問を投げかけているようですが、宗教と心理学は極めて密接な関係があると、自分は思っています。∴心理学の浸透する社会≒宗教の浸透する、と感覚的には同じだと思うのです。もちろん厳密に言えば対極のように違うことでしょう。しかし、次の心理学の文章を読んだときこれは「こころの問題」を科学的に、合理的に考えようとしているだけで、考えていることは同じではないかと思えるのです。
 
 「心理臨床の仕事に従事していて感じさせられることは、人間は無意識という内的必然にしたがって、挫折や失敗を繰り返すのではないかということである。そして、挫折や失敗とか症状や問題行動というものが、人間の内的成長の節目、節目に現れてきていることから、こうした事柄は人間がその人本来のあり方からはずれた内的な状態、いってみれば「自己疎外」の状態から真の自己を回復しようとする無意識の作用ですらないかと思われてくる。
 人間の心は、深いところでも、バランスや調和を保とうとする機能をもっているのではなかろうか。であるから、とんでもないことをしでかしたり、症状や問題行動などでみずから悩まねばならなくなった人は、性格傾向も含め、今までの自分自身のあり方を深く検討し、自分に何が必要か、分析してみることが大切であろう。
 その際、大切なことは、人生を一種の創始的なプロセスとしてとらえることであろう。人間は過去経験という「因果の法則」によって決定されるものではない。意識の背後に存在する無意識はさまざまな発展可能性を有しているのである。
 自己分析をするということは、今までの自分の意識(自我)のあり方の歪みに気づき、無意識のもつ可能性に身を委ねてみる作業でもある。そして、それを通して、新たな自分のあり方を模索することでもある。予測はつかないかもしれないが、新たな自分を体験することこそが創始なのである。人間の一生というのは、こうしたことの繰り返しではなかろうか。そして、より賢明に生きるということは、こうした無意識のもつ力を体を通して知っているということであろう。」(性格分析 小川捷之著より)
 
 言葉を翻訳すると、まったく宗教的な話とすることができる。
 「人間は無意識という内的必然にしたがって」とは、「業」のことと受け取れる。
 自己発見や内観のようなことに触れるが、人生は、過去経験という「因果の法則」によって決定されるものではないと言う。この視点の違いだけは決定的である。心理学は今起こっている問題を解決する手段であり、宗教は現状を受け入れる手段であると言える。そしてどちらも創始的なプロセスとしてとらえなければならないだろう。
 「自己分析をするということは、今までの自分の意識(自我)のあり方の歪みに気づき」は法話でも言われるもっとも重要なことであろう。
 「新たな自分を体験することこそが創始なのである。人間の一生というのは、こうしたことの繰り返しではなかろうか。」は、まさに小さい意味での輪廻転生のことである。
 「より賢明に生きるということは、こうした無意識のもつ力を体を通して知っているということであろう。」はもう説明もいらないであろう。
 宗教と心理学(科学的・合理的な説明)とのコラボは唯識を研究したように当然必要であろうし、現代のように研究が進んだ世の中では特に情報交換が重要になってくると思う。心理カウンセラーとは一味違う心の専門家がお寺の住職であると認めてもらえるように、そして、もう『「心の専門家」はいらない』とは言わせない時代が来るかどうか?