本を読んでのことですが、「仏法は人間存在を根本的に問い、私たちに自己否定を促しますので、仏法を聞くということは決して居心地のよいことであるはずがありません。むしろ自我が否定されるために、次第に自分自身の迷いが深まると言ってもよいのではないかと思います。教養的な仏法は、自我を問うことよりもむしろ自我を満足させますので、迷っているということすら気づかせないのでしょう。いわゆる耳ざわりがよく、わかりやすい、そして居心地のいい話、それは「アクセサリー」仏教の特徴ではないでしょうか。そうではなくて、自我を根底から否定し、その人を真の信仰主体にまで育む、ここに真宗真宗たる本義があるのだと思います。」
 これは真であり、偽であると思います。その後に「仏法は本来的に分別を超えているものです。」とあります。これは真だと思います。しかし、そんなことを言ったら宗教の強化活動などというものは人間には出来なくなってしまいます。卑怯なことにこの命題は逃げにも使えるということです。真摯に説明する努力をするべきだと思います。それは古代から哲学者、思想家の試みてきたことです。今真宗は結集して世に真の宗教を問いただすべきなのではないでしょうか。「仏法は本来的に分別を超えているものです。」の命題をまともに受け止めるのかということ。もう一度考え直すときが来ているのかも知れません。