南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう
『南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう』は、真宗大谷派の親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年慶讃法要のテーマです。
2023年3月25日から4月14日までの間で、三回に分けて法要が勤まります。
1973年に、親鸞聖人御誕生800年、立教開宗750年慶讃法要が厳修されましたが、そのときのテーマは『生まれた意義と生きる喜びを見つけよう』でした。
今回のテーマは、よく似ているように見えますが、次のような違いがあります。
①「南無阿弥陀仏」がついている。
②「生まれた」の前に「人と」がついている
③「意義」が「意味」に変わっている
④「生きる喜び」が無くなっている
⑤「見つけよう」が「たずねていこう」に変わっている
言葉の宗教と言われる真宗のテーマですので、いろいろ議論して決めたことと思われます。
『生まれた意義と生きる喜びを見つけよう』は、どうも押しつけがましくて好きになれませんでした。見つけられなかったらどうする。見つけなくてもいいんじゃないか、と思ったりして。
1988年に「アンパンマンのマーチ」という曲がやなせたかしさんの作詞で作られました。その中で「なんのために生まれてなんのために生きるのか」の答えは「みんなのため」「みんなの夢まもるため」と言っています。理想(ほとけのものさし)は利他行に生きるです。どうしても「なんのために生まれてなんのために生きる」と問われれば他がためという理想に走って、自利利他円満みたいにはなりにくい気がします。
『南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう』の方が、なかなか深く考えられているように思います。南無阿弥陀仏をどう捉えるか人によって違うと思いますが、阿弥陀様と一緒にたずねていこう、答えが見つからなくてもいいんだよ位の柔らかい表現になっています。
まだ2023年まで3年間あります。このテーマを考え続けて、何かが変わる、みたいなことがあるのか、ないのか。楽しみに慶讃法要を迎えたいと思います。
また気が付いたことがあれば書いていこうと思っています。
コロナ禍
2020年4月18日、日本はコロナ禍の真っただ中にいて、これと言って対策も打てずにいます。梅雨どきになれば何とか収まるというような「掛け」のような神頼みしかないのでしょうか。
対策をしている方々には、選挙やらオリンピックやら権力争いやらそれぞれの事情があって、収束してもらわないと困るのでしょうが、各グループがそれぞれの思惑で動いているので、対策方針が定まりません。
そうは言っても、いずれワクチンができると思います。庶民はあまり右往左往しない方が良いのかもしれません。じっと待機です。
カレンダーに『人生には待つことが多い。今すべきことを行いつつ、こころ穏やかに、来るべきその時を迎えよう』とありました。”こころ穏やかに”が大事なことですね。時が過ぎて2020年にコロナが流行ったと言われるときが来るのでしょう。
「生かされて生きる」を考える
倫理関係の本の中に、「生かされる」という言葉が出てきました。宗教的には「生かされて生きる」ということはよく言いますし、全く違和感はありませんでしたが、その本では、不幸にして重度の昏睡状態に陥ったりした場合を文字通り「生かされている」状態であると言っていました。そのように生かされている状態には自由な意思はありません。
法話で、「生かされて生きている」と言われることはどういうことだろうかという疑問が出てきました。よくよく考えて見たら、「生かされる」という生き方には意識も意思も無く、主体性が無いと見ることが出来ます。
「生かされて生きる」の「生かされて」というのは、目に見えない大きなはたらきによって生かされているということです。浄土真宗では、眼に見えない大きなはたらきのことを、阿弥陀如来の本願力(他力)と受け取っています。ですから、私たちは、阿弥陀如来の本願力(他力)によって生かされている、だから、生かしてくれている阿弥陀如来に感謝する心が起こるという方程式が成り立つのです。
実は、ここでいう「阿弥陀如来の本願力(他力)」というのは、あくまでも私を浄土に生まれさせるはたらきのことです。真宗の他力は、阿弥陀様が何かをしてくれたりとか、自律神経によって心臓が勝手に動いているとか、社会生活における他人の援助ではありません。私を浄土に生まれさせるはたらきのことです。極楽浄土に生まれ往かせる。そこには、こっちはイヤとか、あっちが良いという自由はありません。人間として生きている現在「生かされている」ということは、浄土往生に向かって生かされているということであり、「生かされている」ことを体解することが、浄土往生決定ということなんだと理解しました。
『浄土往生に向かって生かされて、此の世を生きる』
「生かされて生きる」の「生かされて」は、我々には理解しがたい「絶対他力」の言葉だったということに気づかされました。
命題の真偽
お寺の掲示板を紹介するサイトに
『不幸を知らない人は、幸福を知らない
悲しみを知らない人は、喜びを知らない』
というのがありました。少なからずの「いいね」を集めていましたが、自分にはこれは正しい命題かどうか、すぐにはピンときませんでした。
1、不幸を知らない人は、幸福を知らない AならばB
2、幸福を知らない人は、不幸を知らない BならばA 「逆」
3、不幸を知っている人は、幸福を知っている AでなければBでない 「逆」
4、幸福を知っている人は、不幸を知っている BでなければAでない 「対偶」
逆は必ずしも真ならず、といわれるように、この場合の2,3の命題は根っからの不幸者がいるとしたら、いずれも偽でありそうです。問題は、掲示板の言葉1が、完全に真かどうか?
最初の命題1が真ならば、対偶の命題4は必ず真なので、この命題は、幸福を知っている人は必ず不幸を知っている=不幸を知っている人の一部の人が、幸福を知っているということになります。すぐに分かることですが、不幸を知らなくても幸福な人はいるわけで、あきらかに間違いだと思います。
幸福とか不幸というものは、あくまで幸福感、不幸感であって、これが幸福、これが不幸と決められるものではありません。幸福と不幸には関連が無いように思われます。そこにこの命題の間違いがあったように思われます。
『不幸を知らない人は、他人の不幸がわからない』ならまず真のような気がします。(気がするというのは、自分の不幸と他人の不幸は違うと言えなくもなく、共感とか難しいのが本当のところだということです)
あなたが幸福だと思っている幸福は、実は幸福ではないのだよ、と気づかせる目的あるいは、不幸を知らずに幸福だと思っている人は、「本当の幸福」を知らないのですと言っているのでしょうが、幸福の定義が各人で定まっていないために、ちょっと待てよという違和感が生まれたのだと思います。
「本当の幸福」を「絶対の幸福」と呼ぶ新宗教もあります。上記の掲示板の言葉からは、我々の宗教の無上の幸福を得るためは、不幸を味わったものしか到達できないのですよという、新宗教よろしく、上からのメッセージみたいなものを暗に感じ取ってしまいました。
『不幸を知らない人は、幸福を知らない』(『悲しみを知らない人は、喜びを知らない』も)が正しい真の命題かどうか、よくよく考えてみる必要があると思いました。
ただ、真偽を無視して、自分の幸福感を、阿弥陀様が正してくれているのだと受け取ればいいのかも知れません。
気になってすこし考えてしまいました。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んでの感想
https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
先日、娘が母親に「面白いから読んで」と言って置いていった本が、テーブルの上に何日も置きっぱなしだったので、なにげなく読み始めてみました。毎日1時間50ページくらいずつの予定で。でも、3日目の夜には読み終えていました。
コロナで暗い時世にちょっといい話っぽくて、心が晴れそうで、面白いなと思って読みだしたのですが、最後の方では息苦しくなってしまいました。
・イギリスでは(たぶんアメリカも)、社会的な多様性について、こんなに気を使って生きていかなければいけないのか。
・小さい時から訓練していないと思考が全くついていけないのではないか。
・今のところ、自分がついていけている(と思っている)日本は、かなり遅れているのではないか。
日本が遅れているという不安と、もしイギリスのような社会になったら自分はついていけないのではないかという不安が、どっちに転んでも、のし掛かってくるではありませんか。
本音を言えば、今のままで終わって欲しいところですが、少しずつでも進んでいくのでしょう。自分はそれに慣れることしかできません。LGBTにすこし慣れたと思っていたら、LGBTQだと言います。「Q」って何。クエスチョニングの「Q」だそうです。「まだ決めていない人」。
よく分からないので調べてみたら、LGBTQ+とまた増えていました。「+」は何かの頭文字、というわけではなく、他にも様々なセクシュアリティがあるよ、と示すためにつけられているとのこと。これだけでもなかなかついていけないのに、差別や格差、家族の在り方、コミュニティなど、イギリス人はその中で毎日生活しているけど、日本の私はどう?と聞かれたら、そのような生活は息苦しくてしょうがないと思ってしまいました。
何にしても、不登校で、フリーターだった娘(現在30才)が、自分で学校を卒業して、派遣から正社員になって頑張っている中で、この本に出合ったことは、本人にとっても私にとっても何かの意味があるのだろうなと思いました。もう先のない老人にはきつい一冊でした。
情報の切り取り
2020年コロナウイルスが流行っています。
フェイスブックに、
『こんな偶然ありえる!?』
と題して、
1720年 ペスト
1820年 コレラ
1920年 スペインかぜ
というものがありました。
すごいと思って調べてみたら、スペインかぜは1920年に流行していましたが、ペストもコレラもこの頃に毎年のように流行っていました。1920年のペストは、1300年代から数ある流行の内のマルセイユで流行った年でした。コレラも1800年代にずっと世界のどこかでは流行していました。
情報の切り取りです。ネタとしては面白いのですが、真実のように宣伝されるのは混乱を招きます。
現代は情報過多で必要な情報を探している人にとっては、まことに厄介な時代になってしまったと思います。騙されないように注意が必要です。
日本は大丈夫?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200409-00000007-jij_afp-int