最近思うこと

 最近フェイスブックなどを見ていて、自分の知識や経験からすると、この記事違うなぁと思うことや、どうでもいいこと書いてるなぁと思うことが度々あります。以前はいちいちコメントしたりしていましたが、放っておいても別にどうってことないとわかると、この世の中は、すべて虚空なんだなと感じます。
 歎異抄の中に「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」とあります。また、蓮如上人の御文には「人間は電光朝露の、ゆめまぼろしのあいだのたのしみぞかし」とあり、楽しい夢でもそれは一瞬のことであると説いてくださっています。
 浄土真宗ならずとも、李白の言葉に「浮生 夢の如し」とあるように、何か、空しい・虚しい・無駄な・不毛な・儚い感覚というものは、すべての人が感じられる、共感できるものなのかなぁなどと思ったりしています。
 それで、明らかに間違っていること、知らないことを一生懸命フェイスブックなどに書いてあるのを見ると、本当に真実などは欠片も無いものだなぁと思い知らされます。
ただ、自分もフェイスブックに書いているときは、高揚感に満たされ、自慢げに書くので、見る人が見たら、「何を言ってるんでしょうね」ということなのでしょう。
 知識(教え)も、実践(行い)も十分でないものが、信証を得ることは容易ではありません。60才になったら、”信”を得ることに特化したい。最期には”証”に到達できるように。

 

教行信証

 ヒンズー教に「四住」という考え方がある。 これは理想的な人生の過ごし方と言うべきもので、人間の一生を「学生期(がくしょうき)」「家住(かじゅうき)」「林住(りんじゅうき)」「遊行(ゆぎょうき)」の四つの段階に分けて考える。
 古代中国における陰陽五行思想では、「春」には「青(緑)」が当てられる。 同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄(黒)」に当て、それぞれ「青春(せいしゅん)」、「朱夏(しゅか)」、「白秋(はくしゅう)」、「玄冬(げんとう)」という。
 それと同じように、20代ころ、40代ころ、60代ころ、80代ころで「教」「行」「信」「証」が当てはまるような気がする。それぞれの年代の目標というようなものである。
また、少し考えて見よう。




法話は誰のためのもの?

最近、20代、40代、60代、80代の人が同じ法話を聴いていても、その受け取り方は違って当たり前だと思えてきました。自分が60歳に近くなって定年を意識し始めたとき、定年後の法話の聴き方って大分違ってくるのではないかと、そんな期待を覚えています。
そのことについてまた考えたいと思っています。

今日のできごと

サステイナブル消費の若者たち」という言葉。sustainable とは、支持できる、持続できる、耐えうるという意味である。過剰な消費や拡大を目指さない持続可能な消費者が今の若者ということらしい。自動車を買ったり、海外旅行に行ったりしない、酒も飲まない若者が増えているという。しかし、衣食住など生活に関わるモノは買うし、通信費などにもコストを掛ける。使うところが変わってきたというべきかもしれない。これは充分とは言えないお金をいかに有効に使おうかと苦労しているのであろう。そして、若者全体の消費額は、少子化によって確実に減ってきているという。
それはそれとしても、お金を持っている人も使うのを渋るようになっているような気がする。安売りのスーパーにベンツが止まっていることもざらだし、なんならいい車に乗って安売り店に来ている人のほうが多い気もする。
将来的に個人も消費に期待するのは、もう無理があると思う。将来の生活に不安があるため、持っている人でさえ、お金を使わなくなる傾向は急激に進んでいくだろう。
それで経済が成り立つのかといえば、今のような成長経済を期待する政策では、多分近い将来成り立たなくなるのだろう。早く次の手を打って、方向を定めなければならないのに、痛みのある改革の責任は先送りになっている。どこかでその付けが回ってくると思われるが、どうしたものか。

今日のできごと

今日は、第39回安城市民大学の第1回 古市憲寿氏の「現代の幸福論」の講演を聞きに行ってきました。
安城市民大学とは、毎年著名人を招いて39年間続いている講座で、テーマは『自分らしく生き生きと歩むために ~聴こう!学ぼう!挑戦しよう!』だそうです。皆さん有名人が来るということで、興味本位で受講されているのだと思いますが、こんな企画を開催してくれるのは有難いことです。
古市氏が今度書いた小説『 百の夜は跳ねて』も、前回に引き続き第161回芥川賞の候補作となったそうです。内容は、就職活動に失敗し、高層ビルの清掃業に従事する23歳の主人公の男性が、清掃中に出会った年配の女性からの依頼で清掃するビルの盗撮を始めるという話だそうですが、芥川賞を取ったら文芸春秋を買って読みたいと思います。
「現代の幸福論」の講演は、90分間早口でしゃべりましたが、普段から浄土真宗の話を聴いている自分にとっては、ありきたりなもので、特筆するようなこともなかったです。その真宗と似たような話なのに、古市憲寿氏が語るということで1000人以上の人が集まるということが、どういうことなのかということを考えさせられました。
話を聴いた人たちはどんな感想を持って帰ったのだろうか。そこが知りたかったです。

人の紹介


川上清吉(かわかみ せいきち)   明治29(1896)年~昭和34(1959)年

「しぶ柿問答」(『光を聞く収蔵』)より。

ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
Ⅰ君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。―何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。
では、宗教は何の役に立つものなのか―と、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが宗教だということは言っていいと思う―と答えた。
信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。―
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。
信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。―
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。
しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。
仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。―という突っこんだ言い方をしてきた。それで 自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられない―と、私もはずむような気持ちになった。
それでは、仏というものは、存在するのか―という。
存在する―と、きっぱりと答えると、
何処に―と、追っかけるから、
その、君の「問。」を起こさせている力として存在しているのだ―と言いはしたものの、現在の私としては少し、早すぎる言いぶりではないかしらと、ひそかに思った。
しかし、よく金ぴかの木像など、拝めるね―
うそでは、拝めない。
だけれど、私にはこんなふうに思えるのだ。前に置いて私が拝むものは、うしろにあって私を拝まさせているものだ。
外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ。(以上)