人の紹介


川上清吉(かわかみ せいきち)   明治29(1896)年~昭和34(1959)年

「しぶ柿問答」(『光を聞く収蔵』)より。

ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
Ⅰ君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。―何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。
では、宗教は何の役に立つものなのか―と、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが宗教だということは言っていいと思う―と答えた。
信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。―
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。
信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。―
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。
しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。
仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。―という突っこんだ言い方をしてきた。それで 自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられない―と、私もはずむような気持ちになった。
それでは、仏というものは、存在するのか―という。
存在する―と、きっぱりと答えると、
何処に―と、追っかけるから、
その、君の「問。」を起こさせている力として存在しているのだ―と言いはしたものの、現在の私としては少し、早すぎる言いぶりではないかしらと、ひそかに思った。
しかし、よく金ぴかの木像など、拝めるね―
うそでは、拝めない。
だけれど、私にはこんなふうに思えるのだ。前に置いて私が拝むものは、うしろにあって私を拝まさせているものだ。
外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ。(以上)