歎異抄』の最後に流罪記録が載っている

  現代語訳
後鳥羽上皇が政治を執っておられたとき、法然上人は他力本願念仏宗を興し広められました。そのとき、奈良の興福寺の僧たちが、聖人は仏の教えにそむくものとして、朝廷に訴えました。そのうえ聖人のお弟子のなかに無法な行いをする者がいると、無実のうわさをたてられて、罪人として処罰された人々の数は次のとおりです。
一 法然聖人ならびにそのお弟子七人は流罪になり、また四人のお弟子は死罪に処せられました。法然聖人は土佐の国の幡多というところへ流罪になり、罪人としての名は藤井元彦、男性、年齢七十六歳です。
親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人としての名は藤井善信といいます。年齢は三十五歳です。
浄聞房は、備後の国。澄西禅光房は、伯耆の国。
好覚房は、伊豆の国。行空法本房は、佐渡の国に、それぞれ流罪となりました。
幸西成覚房と善恵房の二人は、同じく流罪と決まっていましたが、比叡山無動寺の善題大僧正(慈鎮和尚)が身柄をひきうけ、流罪をまぬがれました。
死罪に処せられた人びとは、
一 善綽房西意、二 性願房、三 住蓮房、四 安楽房でした。
これらの刑は二位法印尊長の裁定です。
親鸞は、流罪になったとき、僧侶の身分をとりあげられて、俗名をあたえられました。そこで僧侶でもなく俗人でもない身となりました。ここにおいて、禿の字を自分の姓とし、そのことを朝廷に申しでて認められました。そのとき申しでた文書が、いまも外記庁に保 管してあるといいます。流罪の後は、愚禿親鸞(愚かな未熟者の親鸞)と、自分の名をお書きになりました。

この『歎異抄』は、浄土真宗にとって、大切な聖教です。仏法に縁のない人には、安易に見せてはいけません。
                                釈蓮如(花押)

 死罪の4名がなぜ、西意善綽房、性願房が1番、2番なのであろうか? 張本人は住蓮房、安楽房だとしたら順番が違うのではないか?という疑問が出てくる。西意善綽房、性願房は何をしたから死罪になったのか?これについては全く分かっていない。また、親鸞聖人も死罪になるところ、貴族の門流のため流罪減刑されたという説もある。院庁での評定の席で死罪を宣告されるとの噂があった。しかし伯父たちの奔走もあり、最終的には越後への流罪とされたのだと伝えられている。
次に法然上人の言い伝えとしてこんなやり取りが知られている。
無実の罪とはいえ上人が四国へ流されることになり弟子達は高齢の上人を心配して念仏を止めてはどうかと勧める者もいたが、「たとえ死刑にされるとしても念仏の教えを説くことは決して止めない!」と断固とした厳しい態度で戒めた。
法然 「嘆くでない。念仏の教えを他の地に広めに行くと思えば本望じゃ。南無阿弥陀仏
西阿 「お上人さま、このような時に念仏はお止めください」
法然 「何を申す。私はたとえ首を切られようと、念仏を止めることなどできぬ。各々方、念仏を、念仏を忘れるなよ」

 
このやり取りからすると西阿は念仏を止めていただろうと推測できる。とすると、やはり念仏を申す行為がかなり量刑を支配したのではないかということが考えられる。

 国は変わるが1632年「プトレマイオスコペルニクスの体系に関する対話」を公にしたガリレイは宗教裁判にかけられたが、コペルニクス説の誤りを認めたために許されたという記録がある。この事件に先立ってブルーノは認めなかったために1600年にローマで火刑に処せられている。

 死罪になった4人以外は念仏停止を受け入れたのではないだろうか。法然上人は例外であり影響力の大きさから死罪にするわけにはいかない。親鸞聖人は最後の方まで残った一人であろうと思うのだがどうであろうか。
 建永2(1207)年2月9日。住蓮房と性願房は馬淵荘(まぶちのしょう/現在の近江八幡市千僧供町)で、安楽房は六条河原(京都)で、西意善綽房は摂津(大阪)で、それぞれ斬首されたという。
 2月9日は親鸞聖人の夢や御和讃に出てくる日付である。それだけ心に深く刻まれた日付で、当然いかばかりかの法要も行ったものと思われる。親鸞聖人が最終的に念仏停止を受け入れたとしたら、その裏切りの心を強く慚愧したことは予想できる。そう考えたときに自分は初めて愚禿悲歎述懐和讃の激しい異常とも思える自己否定的表現が理解できた。
 自分は、死罪を前にして、念仏を一時止めてでも命長らえようと思うような人間(親鸞自身の言うような煩悩具足の凡夫)が、親鸞だったのではないかと思う。そして、そんな親鸞聖人を慕っていきたいと思うのである。