「あたりまえ」

この言葉は、真宗の法座では、「本来感謝しなければならないことに気付かずに『あたりまえ』として生きている」という意味で使用されることが多いのですが、今回の聴聞では、「年を取らないようにとか、健康でいつまでも元気にとか、考えているかもしれないが、年を取るのが『あたりまえ』、病気になるのも『あたりまえ』」という話をされて、ウン?と違和感を感じたのです。何故だろうか?何か違うような気がするのは。多分、それこそ「あたりまえ」の話だったからなのか。
良いことは「あたりまえ」ではないのだと考え、悪いことは「あたりまえ」と考える。悪いことを「あたりまえ」という言葉で受けるのは無理があるような気がします。「無常」だとか他の言葉で話をしたほうが聞いている人は納得しやすいと思うのですが、どうでしょうか?