「それ聖人御入滅は、すでに一百余歳を経といえども、かたじけなくも目前において、真影を拝したてまつる。また徳音は、はるかに無常のかぜにへだつといえども、まのあたり実語を相承血脈して、あきらかに耳のそこにのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。」

 法話の最初に上記のご讃題を頂き、『真宗は言葉の宗教です』と言い放った。「とことん南無阿弥陀仏のいわれを聞き開いていくしかないのです」明解です。ここまではっきりとおっしゃる講師はいません。親鸞絵伝の四幅目をもって御絵解きの様相で法話は進んでいく。
 箱根権現の段では、平太郎の夢の中で衣冠正しい者と親鸞聖人が相向かう場面があるのだが、それを「トップ会談」と名づける感覚、そんな言葉の譬えというようなものが法話のあちこちに飛び出すので、いつも頭のスイッチをオンにしておかないとついていけない。
 「最近の葬儀でみんな何と言うか。『ご愁傷さまです』違うっていうの。みんなご愁傷さまという漢字が掛けますか。そんなわからない言葉を使っていいはずが無い。「お力おとしでございます」という言葉が昔からあるんです」
 真宗門徒言葉に関してはこのご住職は一言あります。「おとましい」「お与えがのうなった(無くなった)でのう」「与力」そんな言葉を使える門徒は今は亡き司馬遼太郎だけだったろうと言っていました。「業を果たさにゃ死ねん」年は取ったが人間業を果たさにゃ死ねんのだと。(聴聞の人の2〜3人が共感)住職は「その2〜3人が亡くなったら三河から真宗の実語を相承血脈していけなくなります」と強く訴えました。
 最近の葬儀での門徒の三ない主義「泣く人がいない」「おくやみの声がない」「念仏が出ない(出さない)」
 本当にさまざまな角度から、問題提起が為され、新たな葬儀の世界観を提唱するこのご住職。万博以来言い続けている『葬儀革命』が今始まろうとしている。住職は、大学では「葬儀学」をやるべきだと語っていた。