「末代無知の在家止家の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。」
「余のかたへこころをふらず、一心一向に」
これは浄土真宗の専売特許のように思っていたが、
そのことの大事さを詩人と聖者を兼ねていたカビールという人がこう言っている。
「万物の内にひたすら「一」を視よ。「二」が人の道を誤らせる。」
まさしく二ではダメなのである。
こんな例が出ていた。
たとえば、インド・ヨーロッパ語系の諸言語では、「二」を意味する語根が「悪いこと」という意味を含んでいるのはまことに意味深長である。ギリシア語の接頭辞dys-(たとえばdyspepsiaは「不消化」の意)やラテン語のdis-(dishonorableは「不名誉」)はともに「二」を意味するduoから来ており、それと同語源のbis-は、bevue(文字どおりには「二視」を意味する「しくじり」)のような近代フランス語の単語に悪い意味を与えており、「人の道を誤らせる二」というあの考えの痕跡は、dubious(疑わしい)や「疑い」を意味するdoubtやZweifelにも見られる。疑う(doubt)とはすなわち「二心を抱く」ことなのだ。分裂していることは本質的に悪であることを闡明にしているのだ。
「二」は悪であると無意識のうちに言語体系で植えつけられているところがあるという事実。それは一神教に通じるところも有るかもしれないが、世界的に哲学的真理として「疑う(doubt)とはすなわち「二心を抱く」ことなのだ。」と言えるのであろう。
カビール蓮如時代のインドの人。場所を離れて蓮如の御文とリンクしているのが奇遇である。
それより300年も前の親鸞は先立って当たり前のことを言っていたのである。
ただ受け取り方で、「一心一向が良い」と受け取っていたのが、「二心は悪である」という方の意味が強かったということになるほどと思わせられるところがあった。