法話で紹介されたことは、
流刑地越後から関東にどのようにしていかれたのか?
ということに眼をやったときに、今まで何を勉強してきたのか
恥ずかしくなったというのです。
それを考えたときに、教行信証やら二河白道やらの
難しいことは勉強してきたが、越後から関東に
移動する苦労ひとつ満足に理解できていなかった。
何故関東に移動したのか、宿泊はどうしたか、
食べ物は、同行者は、等々。
どれについても疑問はつきないし、想像の域は出ない。
このことについて、平松令三師は、面白い見解を
第六章関東強化の章で述べている。
親鸞は家族を連れての命がけとも言っていい旅に出るに当たって、
自分の信仰や好みに近いグループを探して、
善光寺勧進聖グループと合流することにした、というのだ。
その勧進グループが関東地方、
中でも常連となっていた北関東へ行くことになったので、
一緒に関東に向かった。
つまり親鸞の関東入りは、その自主発意ではなく、
親鸞の所属した善光寺勧進聖が関東に向かったから、
それに随行した偶然的なものと考えたい。

こう考えることで、危険の多い旅の行程も、
泊まるところ、食べ物の問題も解決する。
 
善光寺勧進聖説は、五来重氏(「善光寺まいり」1988年平凡社)と
松野純孝氏(「親鸞―その生涯と思想の展開過程」1959年三省堂)が提唱した。
 
法話の講師は五来重氏が恩師だったそうで、
そのときにもっと聞いておけば良かったと言っていました。
親鸞一向は、行く先々で1〜2ヶ月留まって、民衆のために、
葬儀や土木工事をしたり、薬を調合したりして
信頼を得て勧進を進めていたと思われるという。
各地の伝わる大蛇伝説は、川の氾濫を意味している。
土木工事によって、大蛇を退治するという伝説も納得できる。
親鸞池など、親鸞が発見したといわれる池や泉の伝説も
土木工事の技術知識をもっていたが故に、水源を発見できた。
そこには、祈祷・まじないを真っ向から否定する教えに
通じるものがある。
そんな生き様から、親鸞聖人の信心は生まれているのだと
気づいたときに、講師は今まで何を勉強してきたんだと
本当に恥ずかしくなったという。
それが、10年くらい前(50才を過ぎた)のことだそうです。
 
同じくらいの年齢になった自分も身につまされます。