中日新聞に「千の風」にならないで―というエッセイが掲載された。仲の良かった夫婦のようで、旦那さんが無くなって10年、毎朝のお墓参りが、私の元気の素と言う。「これからも毎朝来ますから、間違っても『千の風』になってフワフワ、ウロウロしてお墓を留守にしないでくださいね」“ここにいません”では困りますから。「あなた、これからもよろしく」と結んでいます。
 自分はいろいろ「千の風」についての意見を聞きましたが、このようなものは初めてです。仲が良い夫婦は「千の風」容認派で、いつも一緒にいて見守って欲しい。仲が悪い夫婦は「千の風」真っ平ごめん派で、死んでからもまとわりつくなというものが大部分でした。
 いくら仲が良くても死んだ後まで自分の思いで相手を縛ってしまう考え方に?が付きました。
 人間のこころというものは多様で、本当の意味で喜びを共感できるということが如何に難しいかと言うことを感じさせられます。お墓参りも、この世の延長、留守は困る。私の楽しみ。これがたった一つの楽しみだとしたら、それが破れたときにどうなるのでしょう。その時にはその時でまたこころ変わりするのでしょうが、「千の風」をもっと深くとらえるとそんなこだわりさえ感じなくて良いと思わせてくれます。
 亡き人とつながりがあった人は、自分だけではなかったはずです。留守にしていれば主人が喜んで出かけていると思えれば、もっとこころが豊かになるはずです。
 仏となったら如来衆生済度のお手伝いをさせてもらう。衆生済度ですから、自分だけではなくすべての人を救うためにはたらいて下さっている。そのためには姿・形を変えてあらゆる所にはたらきとして現れる、そのような考え方は、亡き人サイドをも思いやる広いこころを感じさせます。
 個々の人がどのように考えるかは、生い立ちや出会いなどのご縁によって違ってくるのでしょうが、老いた後に少しでも幸せを感じさせてもらえる感覚を得ておかないと、などと人が書いたエッセーを読んで、考えさせてもらいました。