ちょっと活動期に入ったようで、目が冴えて眠れません。あれもやりたい、これもやりたいとアイデアだけは出てきます。当たり前のことですが、気づかないときにはそのまま過ぎてしまっていることも多くあります。
 誰に対して、どう動けば良いのか、そんな関係作りを頭で考えています。
 下記[話題]に書いたような、宗教と知識の関係がまだわかりません。知識があって宗教的感覚に優れているにこしたことはないと思うし、知識に優れている人には仏も神のわからないと言ってしまえば、宗教学の先生はみんなわかっていないことになるし…。
 自分は、宗教的に幸福になることを、分析することは可能だと思います。本質とイコールで言葉にできないかも知れませんが、こうすれば良いだろうと言うことや書き残すことは可能だと思います。
 幸福の定義付けが難しいのですが、それを決めないと話は始まらないので、いくつかの言い方を挙げて、その一つずつを検討していったら良いと思います。
 例えば「自己肯定感が持てるようになること」―自分が何のために存在するかを確信できるようになること、はどうでしょうか。これは、宗教の本質「自己とは何ぞや」ともリンクしています。その課題と現実社会をつないで見れば、一つの答えとして「人とよく会って、よい本をたくさん読んで、自分でよく考える」と言うことができます。
 念仏一つで救われると言っても実際には何もしないわけにはいかないので、勝手に動き回って生活しています。しかし、自分が生きてて良かったと言えるためには、ただ動き回るのではなく「人とよく会って、よい本をたくさん読んで、自分でよく考える」ようにするといいよ、という指針を与えてあげる。これは、本質的に幸福になっていく確実性のある方法だと思うし、感謝も仏もその過程を過ぎて生活しているうちに現れてくるのだと思います。
 こうでなければいけない、という固執を離れてみて、自分のあるべき道を淡々と進んでいく。そのようになれる指針を示さなければ、念仏道にしても正しい道を生きていけません。喩えが適当でないかも知れませんが、ホームレスになっても、それでいいんだよ、あなたはあなたになればいいんだよ、念仏さえしていれば…、と言うのでは、無責任と言われても仕方が無いでしょう。(本来、そんな境遇にあっても幸福であると言い切れるのが宗教の理想の姿かも知れませんが)嘘いつわり無く幸福だと言えるようになるのには、ただ生きているだけでは駄目でしょう。よく考えて生きていないと無理です。多分仮にホームレスの人でも、できるだけ「人とよく会って、よい本をたくさん読んで、自分でよく考える」を今からでも実行すれば、絶対に変わるはずです。そのときのきっかけが「念仏」でも良いでしょう。
 自分の、宗教の理想に対する疑問は、そこらに有ったのだと最近わかって来ました。みんなが幸福になる方法を具体的に考えなければ、宗教を学んでいる価値がありません。まずは自分でどうなるかを経験し、それを言葉で伝える努力をすること、それには相当の訓練がいります。幸福の定義(物質的に豊かになるようなものではない)や幸福になる方法(指針)は一つではありません。その人の考え方もあるでしょうから、有志でそんなプログラムを考えること、そしてそれが真宗の教えに反しないことを証明することなどに動き出したら、こんなにやりがいがある仕事はないと思いますよ。