三和地区仏教会の仏教講座で中村薫師の「『観経』に聞く」というテーマで法座がありました。結局、登場人物の説明、アジャセがダイバダッタにそそのかされてクーデターを起こし、悩むイダイケ夫人が出てきて愚痴をのべるところで時間切れでした。が、最初からそこまでしかできないということのようでした。
 ビンバシャラ国王の世継ぎの子宝に恵まれない悩みを、占い師に相談したところ、3年後のある仙人が亡くなって、その生まれ代わりが子宝として授かるであろうから3年待つようにと言われ、それまで待てない国王は家来を使って仙人を殺してしまう。
 ここで3年という期間が微妙だという。3年が待てるか待てないかの境目の期間だといわれた。逆にいうと3年は現実味のある期間ということになる。3年以内を目処に何かをやると決めると良いと思った。
 ビンバシャラ王もイダイケ夫人も共にお釈迦様の教え(仏法)を聞いてこられた人たちだった、どちらか片方だけでなく、両人ともに仏法を喜んだ人だった。
 お寺に来られる人も、夫婦揃っては珍しいだろう。法然上人は親鸞聖人が妻帯するかしないかで悩んでいるときに、「結婚して仏の教えを聞けないならば、止めなさい。結婚したほうが仏の教えを聞けるのならば、結婚しなさい」とアドバイスした。
 ビンバシャラ王とイダイケ夫人は、共に連れ立って仏の教えを聞いてきた人たちです。
それでも、仏の教えを聞いたからといって、自分の思い通りにならない、願いがかなわないのです。
 子供は「怨念」を持って生まれ、王様を殺すことになるでしょうと占われ、生まれた赤ちゃんを高いところから槍の突き立つ穴に落とすことした。死ねばあきらめるし、生きていれば育てよう。結果、小指を怪我するだけで一命を取り留めた。
 ビンバシャラ国王もアジャセ王子も「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいをもすべき身なり」を地で行くことになる。理と情の一致がなかなか成り立たないのが人間で、怒ってはいけないと分かっていても怒ってしまう。
 そんな国王と王子の間で悩むのがイダイケ夫人。このイダイケが救われることですべての衆生が救われることが出来ることになるのですが、時間切れ。

 結論 
 人間には誰でも1つや2つの苦悩がある、苦悩があるのが人間ともいえる。
 そんな苦悩、思い通りにならない現実も、心配ないと受け止められるようになるのが仏の救い。私たちがこの世に生まれてきた理由は、仏の話を聞かんがためです。これからも仏法聴聞に励んでください。

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 なんとも無難に、一般的なことをおさらいした感じで、しかも尻切れとんぼ。やはり真宗の観経理解は「王舎城の悲劇」の部分だけ。自分には観経の理解がそれでは違うのではないかと思わざるを得ない。真宗の教学なので何も言うことはないのですが、定善義、散善義も説かねば、さらに玄義分をどう見るか、もっともっと深いと思う。
 さて、悪いことばかりではない。何度も聞くことによって疑問もでてくる。気が付いたことがある。
 「さるべき業縁がもよおせば、いかなる振る舞いをもすべし」であるが、今まではそうだなと納得して聞いてきたのだが、先日のTVで「戦争でも人殺しは良くない」とはっきり反対したお坊さんがいた。拠り所がはっきりしていれば「いかなる振る舞い」をすることもないと思う。それを説くのが布教師であろう。「どんなときも人を殺してはいけない。いかなる場面になろうともいけない」と言い続けねばならない。そして実践しなければならない。宗教家ができなくてどうするのだ。
 もし、状況に応じて、「ある振る舞い」をしたなら、それは「いかなる」ではなくその人の拠り所によるふるまいである。そこでその人の真の「拠り所」がわかる。
 さて、また拠り所は弥陀の本願のはずであるが、
 「私たちがこの世に生まれてきた理由は、仏の話を聞かんがためです。」がわからなくなってきたのです。これも最初に聞いたときにはなるほどと思ったのですが、本当にそんな風に考えられるだろうか。最近の哲学、心理学、その他もろもろの本を読んでみるともっと適当な説き方をしているものが多々あることに気が付きました。そう思って見ると「私たちがこの世に生まれてきた理由は、仏の話を聞かんがためです。」の言葉は真宗の宗教性の濃い核心部分です。さあ真宗のお坊さん同士で討論してみて、本当に仏の話を聞くためにこの世に生まれてきたと言い切れるかどうか、もう一度よく考えてみたらいいのではないでしょうか。いろいろ考えることによって考えがはっきりしてきます。