国分康孝著「〈自己発見〉の心理学」より引用
『はたち前後の頃私は、哲学という学問は大してものの役に立ちそうにもないと思っていた。役に立たないばかりか、こんな学問に深入りすればだんだん頭がわるくなると思っていた。それはあるかないか論証のしようもないことを、あるとかないとか理屈をこねているだけではないかとの思いがあったからである。
 ところがそのうちに考えが変わってきた。たしかにあるとかないとか論議しても、実証のしようがないけれども、この実証のしようもないことを、自分なりに決断して定めておかないと、人生で動きようがないことに気づき出したからである。
 たとえば、多くの心理学者は心理テストで人間の知能や性格や学力や態度を測定している。測定してはたして人間の実態がつかめるのかと問うと、この世の中で窮極的に存在しているものは量である。量として存在している限り測定できるはずであると答える。神に対する信仰心すら量として存在しているから、信仰の度合いを心理テストで測定しようと思えばできるのだという。
 ところが、窮極的に存在しているものは量であるということを、どうして知っているのか、すべてのものは量として存在しているということを実証してくれ、というと、それはできないと答える。科学ならデータをもってきて実証できるが、哲学はそうはいかないからである。
 つまり哲学とは私たちの言動の大前提のことである。大前提は論証を超えている。論証を超えているとは、誰の言っていることが本当なのか証明のしようもないということである。平たくいえば、哲学とは十人十色と言うことになる。それゆえに、ある人は窮極的に存在するものは神であるといい。他の人はいやそうではない、窮極的に存在するものは無であるという。ところが第三の人はいや神でもないし無でもない、究極的に存在するものは五感で認識できる経験の世界であると主張する。神か無か経験か、どれが本当か。誰も知らない。
 こう考えると哲学というのは頼りないものである。ところが頼りないものではあるが、それを自分なりに定めておかないと、ものも言えず行為もえらべないのである。』
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 上記の本を読んで、哲学はすばらしい、この本の中には真宗の教えとして抜き出せるところ、また反省させられる(気づかされる)ところが非常に多いと思った。
 
 ところが、10/20付「中日春秋」であるが、ある哲学者が、金融危機や景気後退の現状を〈みんなが自己増殖する資本独自の動きに翻弄され、こき使われて、右往左往させられているだけ〉と分析。人間がコントロールできるはずだという考え方を改めて、〈不気味なもの〉だと思ったほうがいいと指摘している。では、「これからどうしたらいいのか」と尋ねると、要は人間が「謙虚になること」だという答えが返ってきた。
 結言は、恐れを知らぬふるまいをしていれば、いつかは痛い目に遭う。事の大小に関係なく、人間のやることすべてに共通する原理なのかもしれない。
引用終り 
 どうでしょう?この哲学者は『哲学は人生の役に立つのか』と題した本を書いたそうである。「哲学は人生の役に立つ」という結論に持っていくことになるのだろう。上記の国分氏の引用のように、どっちともつきかねる。しいて言えば、各人にとって確実に自分の哲学はなくてはならないというところか。それにしても1〜2ページで終わってしまう。『哲学は人生の役に立つのか』は哲学者が書く本としての題名としてはおかしい。売らんかなの思いが見え隠れしていて不快である。
 一部分の引用を読んでも、これが哲学?宗教じゃないの?もっと言えばごまかし。ある問題に対して、要は人間が「謙虚になること」だなどと平気で答えを出してしまう、しかも宗教家ではなく哲学者ということに驚いた。上記引用の国分康孝氏の姿勢を見習ってもらいたいと思った。
 哲学はあくまでも学問であり、哲学者はそれを研究してきた以上、「謙虚になること」などという一般論では成り立たないのである。
 たとえば、環境破壊についてどう思いますか?食べ物の残飯の量は半端ではないですね?などなどすべての問いについて「謙虚になること」で片付けられてしまいます。しかも謙虚になることには、基準も何もない。それでは役には立たないでしょう。痛い目に遭わないように皆で祈らねばならないような哲学に唖然としてしまいました。中日春秋も手抜きと言わざるを得ない。なぜなら、後半1/4くらいは、どんな記事にでもくっつけることの出来る意味のない文言であるからです。