[唯信鈔文意]
「随縁雑善恐難生」というは、「随縁」は、衆生のおのおのの縁にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆえに、実報土にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。「恐」はおそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり。
「故使如来選要法」というは、釈迦如来、よろずの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに、あたえたまえるなりとしるべしとなり。これを「選」という。ひろくえらぶというなり。「要」は、もっぱらという、もとむという、ちぎるというなり。「法」は、名号なり。
「教念弥陀専復専」というは、「教」は、おしうという、のりという。釈尊の教勅なり。「念」は、心におもいさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなわち選択本願の名号を一向専修なれと、おしえたまう御ことなり。「専復専」というは、はじめの「専」は、一行を修すべしとなり。「復」は、またという、かさぬという。しかれば、また「専」というは、一心なれとなり。ともかくもうつるこころなきを「専」というなり。