加藤恒夫編「社会倫理の探究」の中で、太田学という人が「いじめとプライド」という文章を書き、アンデルセンの「裸の王様」と「みにくいアヒルの子」を題材に“誰が一番バカだったのか”、“本当にみにくいのは誰でしょう”というようなことを考察している。
 
「いじめ」は今深刻な問題であり、パスカルは「人間は本性的に悲惨である。それを忘れるために気晴らしを必要としている」また「救いは神・宗教のみである。この悲惨は人間にとって本性的なものだから、人間自身にはそれから逃れる力はない」という。それに対してデカルトは、「自分の本性に向き合い本当のプライドをもつことが心身の問題に対する万能薬だ。そしてそれは私たちにできることだ」という。今問題になっている「いじめ」を取り上げて、私たちの醜さと、しかし、そういう自分に誇りをもつということの意味を考えてみたい。」として、アンデルセンの「裸の王様」と「みにくいアヒルの子」を題材に取り上げている。

はだかの王さまThe Emperor's New Suit
なぜ、人々は見えないのに「見える」と言ったのでしょうか。なぜ、王様は見えないのに「見える」と言ったのでしょうか。どう思ってウソをついたのでしょうか。
民衆と王様の立場になって考えて見てください。
 
あなただったら「裸だ」と言えますか。口火を切って本当のことを言いだすなんてことができますか。みんなと違う意見でも自分が正しいと思うことは口にだして言った方がいいのでしょうか。周りに合わせることが本当に自分のためになるのでしょうか。周りに合わせるとは誰に合わせることなのでしょうか。
 
「裸の王様」の登場人物のなかで、いちばん賢いのはだれでしょうか。誰がいちばんバカでしょうか。あなたが王様だったらどう思いますか。どうしますか。 
こういうふうに考えていくと「いじめの論理」がみえてくるのだ。
 
みにくいアヒルの子  
なぜ「みにくいアヒルの子」はいじめられたのでしょうか。みにくいからいじめられたのでしょうか。みんなと違うからいじめられたのでしょうか。なぜみんなと違うといじめられるのでしょうか。
 
本当にみにくいのは誰でしょうか。「みにくいアヒルの子」はみにくくないのでしょうか。この物語の結末はハッピーエンドでしょうか。
 
「バカは知らなきゃ直らない」「バカと言う奴がバカ」。 この議論で「裸の王様」を読んでバカだなぁと笑っているものすべてがバカだと言っているのだ。愚かなる自分に気がつくかという課題、そんな自分にプライドが持てるかという課題、弱きものが強くなれる、デカルトの言ったことを教えているのだ。と、考えると親鸞聖人の浄土真宗というものは全くこのことを言っていると気づく。
 
ちょっと話が変わるが、「人権や差別の問題」も、「オレオレ詐欺」もみんな似たような人間の本性の問題として起こっていると思う。「オレオレ詐欺」なんか「裸の王様」とそっくりである。
親鸞聖人だったら「裸の王様」を見て、どうしただろうか。裸だと言っただろうか、黙って見ていただろうか。それとももっと他の行動をとっただろうか。自分にはわからないのだ。
 
明烏敏という人の「歎異抄講話」を見ると、歎異抄にある親鸞が私の親鸞であるという。親鸞聖人より前に歎異抄があるということは驚きであるが、そうはっきり言えるその信仰は見事だと思う。明烏敏師なら、師の考える親鸞が「裸の王様」を見てどういった行動をとるか言い当てることも出来るであろう。
 
しかし、今の自分には親鸞聖人は「裸だ」とは言わないだろうということは想像できるが、黙って見ているとは考えにくい。何か行動を起こすのだろうがそれがどんな行動だか想像すら出来ないのだ。ということは、親鸞聖人像がまだまだぶれているということだろう。
 

考えると「裸の王様」の心理は、「オレオレ詐欺」と共通しているような気がする。
少なくとも、これに関しては、誰かが「詐欺だ」と言わなければならない。
 
 
あと一年半じっくり勉強できる機会を持った。そんなことを思いながら、真宗とは何かを考えていきたい。親鸞聖人の宗派なのだから親鸞聖人の考えが想像できなければ、その課題に全く到達できないのでは、と今は思う。