明烏敏著「歎異抄講話」

序に『本書は、著者が自己弁護のために聖典の盾にかくれようとして書いたものである。本書は、著者が聖典の文句を借りて自分の不平を漏らしたものである。こんな書物は親鸞聖人に迷惑をかけるばかりであるから、焼き捨てるがよい。こんな書物を公にするはまったく名利のためである。本書は「そらごとたわごと、まことあることなき」書物である。』とあります。
凄いことを言うものです。こんなこと書いたら、人に何と言われるか。自分で「名利のため」と言っているので、私は正直です、カッコつけて「私は凡夫です」と言わせていただきますというような、愚人面の善人、少し殊勝なところも見せたいという心もあるかも知れません。しかし、これを別の人が言ったとしたら一笑に付されてしまうでしょう。
明烏敏師が述べるには、
「『歎異抄』に書いてあることが、たとい歴史上の親鸞聖人の意見でないにしたところで、そんなことはどうでもよい。もし歴史上の親鸞聖人が、『歎異抄』のような意見を持たなかった人であるとするならば、私はそんな親鸞聖人には御縁がないのである。なんらの関係もないのである。そうすれば私の崇拝する親鸞聖人は是非、この『歎異抄』のとおりの意見を有したる人でなければならぬ。私の渇仰する親鸞聖人はこの『歎異抄』の人格化したる人でなければならぬ。ゆえに私の宗教の開祖としての親鸞聖人は、確かにこの『歎異抄』と同じ意見を有した人であるに違いない。ゆえに私は、この『歎異抄』は親鸞聖人の中心の信仰にして、この『歎異抄』の作者は如信上人と断定しておくのである。」
この言から力強いエネルギーを感じます。知識として「歎異抄」を学ぶのではなく、「歎異抄」そのものが教えだと確信しており、親鸞聖人よりも先に「歎異抄」の信仰があるというのだから、これには仰天しました。
石和鷹著「地獄は一定すみかぞかし」を以前に読んで、明烏敏という人にあまり良いイメージが無いと思いこんでしまっていましたが、少し腰を据えて605ページの本に向かわせてもらおうと思います。