『人間関係はええかげんでないとできない。
 好かれようと思ったら、ええかげんにしているのが良い。』
 
このことは今回の原発事故にも言える。大学教授も含めてコメンテーターはかなりええかげんである。はっきりもの(事実)を言ったコメンテーターは次に呼ばれないそうだから当然である。ええかげんなことを言うものが重宝がられる。
しかし、それでは第三者は困るのである。個々の人間関係ではおべっかも潤滑油でいいかも知れないが、社会的には許してはいけない。今回の事故のコメントも20年後の責任を担保して発言させるようにすべきである。安全というコメントがもし嘘だった場合、故意でも、本当にそう思って言ったとしても、20年後にはうやむやになるだろう。その人が生きているかどうかすらも分からないのだから何とでも言えてしまう。「ただちに影響はない」と。これ自体は正しい。
鎌田実さんが、葉もの野菜を食べる、食べないは自分で決めれば良いことで、1/1000の危険を安全と見るかどうかは感覚が違うので食べない自由も尊重すべきという意見を言っていた。基準値以下の放射線量しか測定値が出なかったので、葉もの野菜も食べることに問題はないという全体の流れの中での発言である。かなり勇気がいることだが、危ないものは危ないと言わないといけない。個として自立しているから言えるコメントである。ほとんどの大学教授は自立していない。いろいろなしがらみが、意見を曲げる、もっとひどいときには都合のいいところへ誘導しようとしている。今回の当初のコメントと最近のコメントが変わってきた教授もいる。そんなええかげんな人が、ある種の人に好かれるのだ。
コメントを聞くだけでもこの人は違うな、すごい人だなと分かる。責任ある庶民はそんな人のコメントを聞き、自分で判断するべきである。