聴聞していて気になったことがあります。それは第十八願、第十九願、第二十願がどういうことを言っているのかということです。
十方衆生に向かって願を立てられたのはこの三願のみです。ですから、今この世に生きているものも含まれるのでしょう。
十九願は自力、二十願は自他力、十八願は他力ということ、十九願、二十願、十八願と三願転入していくということをおぼろげに分かっているつもりでしたが、一字一句を見ていくと面白いことに気づきました。
 
18願:たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)いて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
19願:たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生菩提心を発(おこ)し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲(ほっ)せん。寿終わる時に臨んで、たとえ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
20願:たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係(か)け、もろもろの読本を植えて、至心回向してわが国に生ぜんと欲(ほっ)せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
 
「たとえわれ仏を得たらんに、…正覚を取らじ。」は48願すべて同じ組み立てである。
18願は、信楽して、十念せん。19願は、発願して、わが国に生ぜんと欲せん。20願は、回向して、わが国に生ぜんと欲せん。とそれぞれ言っているのである。その結果は、『18願は、(衆生)生ぜずは、正覚を取らじ。19願は、(仏)現ぜずは、正覚を取らじ。20願は、(願)果遂せずは、正覚を取らじ。』である。それぞれまどろっこしいことを言っているが、要はわが国(極楽浄土)に生まれさせるということであろう。
19願は来迎である。20願は今回初めて知ったが、念仏申せではなく、「わが名号を聞きて」と言っている。18願はおなじみの「乃至十念せん」で念仏申せ(念仏申しましょう)である。
さて、往生の道には、「申さない、聞く、申す」の三つがあるのだろうか?
自分はそうなんだろうと思う。来迎もありだし、聞くのもあり、申すもあり、これらによって十方衆生が網羅される。阿弥陀仏の国に生ぜんと欲する人はどんな人でもすべて生まれることができることになる。実に良くできている構成である。
 
親鸞聖人は48願の中で、往生の因を誓われた第18願、第19願、第20願のうち第18願のみが真実の願であり、第19願、第20願は方便願であるとされた。第18願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第19願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第20願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であると言われるのである。
そして、この三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第19願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第18願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第20願が誓われたとされている。
 
「もろもろの功徳を修して」「もろもろの読本を植えて」という修飾語を取ってきて自力としているが、それは菩提心を起したり、わが名号を聞いたりしたときに起こる当然の生活行動であり、それは十念に拠っても起こりくる反応である。今回面白いと思ったことは、浄土に生まれたいという願が起こったら、来迎、念仏を聞く、念仏を申すの三つの方法があるのだと言っていることです。上記の解釈は素直には受け止められません。そのように受け止めるのが浄土真宗の教学(当たり前ですが)なのでしょう。

司馬遼太郎著「尻啖え孫市」の中にこんな会話があるそうです。
「その如来は、どこにいる」
「十方世界(宇宙)にあまねく満ち満ちていらっしゃいます。満ち満ちて、わたくしどもが救われたくないと申しても、だまって救ってしまわれます」
「救いとはどういうことだ」
「人のいのちは、短うございましょう?そのみじかいいのちを、永遠の時間のなかに繰り入れてくださることでございます」
「念仏(南無阿弥陀仏)すれば、か」
「いいえ、お念仏をとなえようと、唱えまいと、繰り入れてくださいます。それが、極楽へ参れる、という境地でございます」
「わからぬことをいう。さすれば、念仏は、その極楽に生まれるためのまじないか、関所手形のようなものではないのか」
「ちがいます。さきほど申したように弥陀の本願によってたれでも救われるのでございますから、南無阿弥陀仏ととなえる者だけが極楽に生まれるというものではございませぬ。たれでも、生まれさせて頂けます。お念仏は、そういうありがたさを感謝する讃仏のことばにすぎませぬ」

第18願で「十念したら、生まれないものは無い」と言っているのだから、念仏するということは生まれさせてもらえるということ、そうとなれば「ありがとう」の意味の「南無阿弥陀仏」でもイコールということでしょう。十方衆生が救われなかったら、阿弥陀仏とはならない→阿弥陀仏とすでになっているのだから、十方衆生は救われた、というのにも似た等式であります。「南無阿弥陀仏」と念仏申すことができるのは余裕の現われでもあり、実生活でも確かに救われているのでしょう。そして、念仏申す姿が一番目に見える救いの形なのでしょう。