今から、西蓮寺様の報恩講、戸田信行師のお説教を聴きに行って来ます。
 
外山滋比古氏の「知的創造のヒント」で面白いことを言っています。
『気になることがあっても、それはそれとして、しばらく、ほかのことをのんびり考える。あるいは、ほかのことに夢中になって、前の関心を相殺する。こういう自由をもったときにはじめて人間は人間らしい生き方ができる。
そういう発見が“遊び”という無目的、あるいは、超目的の活動から生まれるのだと思われる。(中略)
そういう遊びに早くから目覚めていたのは、経済的なゆとりをもった商人たちであったと思われる。こういう遊びが結局仕事に大きくプラスになって返ってくるのを知っていたらしい。人間的に幅ができるということだけではなく、商機をとらえる澄んだ洞察力をもつには、日常の雑事、目前の頭の痛い問題をしばし忘れることが、いかに大切であるかを経験から学んで悟っていたに違いない。(中略)
精神もまたしばしば遊びという出家をしなければならないようである。暇だから遊ぶというのではなく、むしろ忙しくて心にかかることが多いときにこそ、遊びが必要であるのは、平穏な生活をしている人に出家の必要がないのと同じである。』

 
「遊び」という語には語弊があるが、聴聞三昧の時に同級生のおくりさんから「好きだねぇ。」と言われて力が抜けたように、また、若いお坊さんから「結局マニアですよね。」といわれたように、自分にとって聴聞=「遊び」(精神的出家)なのだと思う。また先日の法話で何か救われたような感覚になれるのも、ある意味定期的な聴聞が必要なのでしょう。(そんなことが年に数回あります)
『人間的に幅ができるということ』では聴聞はうってつけです。情報入手手段としても、他の「遊び」の何千倍も価値としてはあることでしょう。
湯原昌幸氏の「蝉しぐれ」を教えてもらえるようなことは、なかなか無いことです。それにより、妻の大切さを再認識させられました。カラオケに行っているおじいさんや、おばあさんはそこですでにそんな感覚を身に付けているのです。ある日ある所でその感覚を共有できる喜びが得られることでしょう。
 
「いのちの理由」をあるお世話になっていて一年くらいご無沙汰のお寺様に紹介してきました。昨日便箋3枚にもわたって書かれている丁寧なお礼の手紙を受け取りました。思いが通じたんだ、しかもタイミングも良かったこともあって、こちらの思った以上に活用してくださった。そのことがお手紙に書かれておりました。今、ラジオとTVの取材があってその準備で心騒がしくしておられるそうです。そんな中に少しでも気分転換のお役に立てたんだと本当に嬉しく思い、またその手紙をしばらくの間、営業活動の御守り(励み)として持っていようと思いました。
 
『「念仏」を忘れたら「念私」になる。』とは渡邊晃純師の口癖ですが、自分は「私」の禾辺のとげを抜いて人偏にしようしようとしていました。でも今は「念仏」もだけれども「念客」に徹しようと思っています。「お客さまは神様です。」という言葉があるように、またお客様も仏となる菩薩の身、ある意味間違ってはいないでしょう。(本当は「蝉しぐれ」のようにすぐ身近に気づかなければならないのですけれども…)仕事と「遊び」。両立させていかねば、…。