最近聴聞もめっきり少なくなったのですが、ここ数日で2度聴聞する機会に恵まれました。二つとも数多く説教して回っている方で、話し方は上手です。が、どうもあまりしっくりこなくて、聞く気が起こらないのは何故でしょう。一つの方ははっきりしています。傲慢とも思える話っぷりが見えない壁を作ってしまっています。南無阿弥陀仏が「なむあみだぶつ」か「なもあみだぶつ」か、はっきり言ってどちらでも良いと思います。それを元はインドの言葉でナモの方が発音が近いので本来「なもあみだぶつ」と言わなければいけない。南無をそのまま「なむ」と読むお東はおかしい、とは本気でそういったのか冗談なのか自分も??でした。もし本気で言っているのならば、「仏」はなんで「ぶつ」と読むのでしょう。詳しい発音は分かりませんが「ボハッ」のような音にならないといけないのではないでしょうか。自分が言いたいことを強調するために事実やデータを誇張したり捏造したりすることはやってはならないと思います。以前正信偈で一番多く出てくる漢字は「悪」であり、親鸞聖人が一番のテーマにしていたからだ、というような法話をした方がいました。興味があったので、全ての漢字の出現回数を数えたら、全然違っていました。それ以来その有名な先生の話は眉唾だと思いあまり聴いていません。多少の演出は必要ですが、嘘はいけません。みんな信じてしまいます。
 それから、「いろいろな修行や自分の力で何とかなると思っている人は、どっか別のところに行けばいいのです」「この宗派はそういうものとは違います」と切って捨てられた。まだ迷っている自分は、やっぱり違うのかなと思ってしまいました。真宗は、御同行御同朋の仲間以外は認めません、私たちの村には入れさせてあげませんよ、と言われたようで。でもよくよく考えたら、エホバでも創価学会でも仲間の宗教だと思うし、真宗もそんなものか、本来の宗教とはそういうものなのかも知れない、とハッとさせられ気づかされました。真宗は宗教なんですよと厳しく言われたようで…。でも、ただ信じるだけでなく、「我とは何ぞや」と哲学的に生きることを思惟する宗派は現代には少なく、そこに真宗の醍醐味があるようにも思えます。みんながそれぞれに御味わいを頂き、時に気づかされ、時に共感する。緩くても、真剣に生きる課題を見つめなおしていく、そんな集団に魅力があり、そのおこぼれにあずかっている自分です。そんなものは仲間ではないと言われれば去らざるを得ませんが、今の仲間も最初から仲間ではなかったかも知れません。(実際そんなことを言ったら残れる仲間が何人いるでしょうか。寝ている人も多く居られました)
 あえて言えば、自分は和気藹々の真宗クラブの方が好きだし、そこから真の真宗門徒(仏弟子)が生まれてくるのではと常々思っています。法話もイベントも「楽しくなければお寺じゃない」と言った住職の懐の広さの方に共感します。そして、少なくとも法話中に居眠りさせない努力は必要だと思います。