昨日は明栄寺様で同朋会でした。ずっと、教行信証を勉強しています。今月は、聖典のp.229終わりころからp.230始めで。大体一回に1ページ弱で進んで行きます。自分はもうかれこれ7年通っているのですが、未だに教行信証を通して読もうと思ったりするだけで、実現していません。ですから、先のほうの化身土巻が重要だと言われても何とも応えようがありません。7年聖典と付き合っても教行信証についての概要は全く分かりません。これもご縁で一気に勉強せざるを得ないようなことになるのでしょうか。
 今回の箇所に「信不具足」という言葉が出てきます。
 「また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思(し)より生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて『信不具足』とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて『信不具足』とす、といえり。」
 聞くだけで考えなければ(身をもって当たらねば)、その信心は完全ではないし、理論だけでその理論を実践している者を信じていないなら、その信心は完全ではない。
 このイメージとしては、新興宗教の信心であるが、よくよく考えてみれば、浄土真宗は当時新興宗教であった。今の人に信心具足となり得るような、浄土真宗の信じ方ができるのであろうか、と疑問に思ってしまった。
 どうも、親鸞聖人は、法然上人の浄土の教えを厳密にし過ぎたらしい。念仏為本を信心為本まで研ぎ澄ましてしまった。その結果、人間の思い計らいで信じる信心をきっぱりと否定した。そこに難しさがある。またそこに深さがあるのだ。
 雑談の中で、生活の場では、一瞬一瞬における判断が行動を決める。その判断の基準となるものが各人違うために、違う行動が現れる。私たちは考えられる行動の選択を間違えないように生きているが、それが正しいとか間違っているとかは後にならないと分からないのだ、という意味のことがでてきた。そうだ、その行動基準、価値観が行動を決める。仏法を学ぶものは、少しでもその行動に、仏法による価値基準が反映されるような生き方をしたいものである。真宗の講座で、初めてくらいだが、こうすれば良いのかもしれないという指針が示されたような気がした。そのご縁にちょっとだけ感謝。