丸山健二著『生きるなんて』巷にはびこる建前論を極端なまでに拒絶し本音で語る「丸山流辛口人生ノート」 
第1章の「生きるなんて」のつづきです。
 (そうした争いのない道を)よしんば発見できたとしても、その道で生き抜くのも簡単ではありません。よほどの覚悟と才能と努力が必要になるでしょう。そして、何よりも強い意志力と正義感が求められるでしょう。なぜなら、前者の場合とは異なった意味での犠牲を強いられるからです。嘲笑や、疎外や、排斥や、追放だけならまだしも、ときには抹殺の対象にもされかねないのです。
 他者を支配し、他人を食い物にして生きる連中にとって、かれらが築き上げた権威や価値観をまったく認めないあなたは、邪魔者以外のなにものでもありません。ひとたびそんなあなたの存在を認め、許してしまえば、おのれの牙城が突き崩されるのではないかと不安に駆られ、恐怖を覚え、そこで、これまで培ってきた財力や権力を注ぎ込んで、なりふり構わない手段に訴えて、あなたの排除に掛かります。
 そうした意味において、確かに難関と危険に満ち満ちた道ではあります。でも、実はこの道を捜し当て、悪戦苦闘しながらそこを通ることこそが、最も人間らしい人間として生きた証なのです。
 だからといって、その道を指定したり特定したりすることは、どこの誰にもできません。理由は、目に見えない道だからです。職種の問題ではなくて、精神の有り様の問題になるからです。
 精神とは、欲望の過剰な噴出に働く安全弁のことです。本能に好き勝手な真似をさせない自制の力のことです。
 肉体と同様、精神もまた生まれながらにして強弱の差があります。ところが、これもまた肉体と同様、精神もまた鍛えれば鍛えられるものなのです。逆に、安定した立場のなかでほったらかしにしておけばたちまちのうちに弱体化することも、また同じです。
 しばしば切り札のようにして使われる言い回しに、「人間らしく生きたいから」という常套句がありますが、どうやらこれには二通りの解釈があるようです。
 ひとつは、感情や本能の赴くままに、やりたいことだけやり、やりたくないことはやらないという生き方です。最も自然で、最も楽な道です。無理のない、安易さゆえに、多くの人々がこの道を通りたがります。
 しかし、この道を行くには、ある種の負い目を払いのけるための、自己弁護の言葉が必要となります。等身大の生き方とか、自然体の生き方とか、自由な生き方とか、はたまた芸術的な生き方とかの、なるべく見栄えのする、美しい包装紙でくるまないことには、どうにも恰好がつかないからです。それがまやかしの生き方であることは、誰よりも当人自身が一番よくわかっているのでしょう。
 ちなみに、文学はかれらにとって弁解の言葉の宝庫であり、唯一の駆け込み寺であったのです。
 書き手は読み手に向かって、こう言いつづけます。

 「おまえらは皆愚か者。しかし、この作品に登場する連中はもっと愚か者。どうだ、少しは気が楽になっただろうが、ええ?」

 この道を歩きたがる者の数は、どうころがったところで、ともかく食べてはゆける時代が深まるにつれて増加の一途をたどっています。言い訳の数もそれに比例し、洗練の度合いを深めている始末です。小説家や、コピーライターや、詩人や、そおほか掃いて棄てるほどいる文化人たちも、大多数に受け容れてもらえることで自分も救われた気分を味わえ、そのうえ商売にもなるという理由でひと役買っています。
 そして、商売人たちは、部屋に閉じこもったままで、本当の経験をしなくても楽しめる、自身が傷つくことは絶対にない安全な疑似体験の世界を商品化することに日夜血道を上げています。
 その結果、現実と妄想の境界線がますますぼやけ、その見分けさえも付けられない、恐ろしく幼稚な若者が急増し、画面のなかだけにとどまるはずだった殺人が、いつの間にかそっくりそのままの形で現実の世界へもちこまれてしまっています。
 
 楽な方へ、より楽な方へと向かう道の行き着く先はどこでしょうか。
 何ひとつ努力せず、ただの一度も単身で闘おうとせず、現実とは最小限の接点しか持ちたがらない、そんな後ろ向きな人生に、果たしてどんな意味があるというのでしょうか。 (明日につづく)