3児死亡事故 高裁判決 「飲酒運転撲滅へ力」 大上夫妻ら各地の遺族 抱き合い万感
(2009年5月16日掲載)
 悲惨な事故を2度と繰り返させないために−。福岡市の飲酒運転3児死亡事故を「過失」ではなく「故意犯」と位置付け、被告に懲役20年を言い渡した15日の福岡高裁判決。飲酒運転事故撲滅に向け、ともに声を上げてきた各地の被害者遺族たちは「私たちの訴えがようやく司法に届いた」と肩を抱き合った。無邪気な笑顔の幼いわが子3人の遺影と並んで会見に臨んだ大上哲央(あきお)さん(36)、かおりさん(32)夫妻は「3人の命が奪われた原因の悪質性がきちんと裁かれた」と、胸に迫る思いを静かに語った。
 一審判決を破棄、懲役20年−。高校1年の次男を飲酒ひき逃げ事故で失った高石洋子さん(47)=北海道江別市=は、裁判長が読み上げる主文を聞いた瞬間、仲間と手を取り合った。「いまだに飲酒運転を続けている人の背中に、ひやっとしたものを感じさせてくれる判決。国民1人1人が受け止めるべきです」。そう言葉を強めた。
 飲酒運転のトラック事故で2児を亡くした井上保孝さん(59)、郁美さん(49)夫妻=千葉市=も涙をこぼし「裁判所は当たり前のことをやっと認めてくれた。悪質な運転には、勇気を持って危険運転罪を適用してほしい」と語った。
 事故遺族たちは16、17日、活動を広めるため、鹿児島市で署名活動に立つ。大学1年の娘を亡くした正林信子さん(59)=埼玉県坂戸市=は「1件でも飲酒運転が減り、私たちのように無念な思いを抱き続けなければならない人が増えないようにしたい。今日の判決は大きな力になります」と話した。
 夏の夜の悪夢から2年9カ月。「本当に苦しい毎日を送ってきました。私たちが思い続けたことが伝わった結果だと思う」。会見で哲央さんは絞り出すように言葉を継いだ。かおりさんは「『過失』か『故意』かで、刑に服す彼(今林被告)の、罪と向き合う責任の感じ方が違うと思ってきた。彼の意識も変わるのではという思いがあった」と話した。
 事故後は、高石さんや井上さんたちと、各地で飲酒運転の撲滅と厳罰化を求めてきた大上さん夫妻。いちずに訴えたその姿が、ときにいわれのない中傷にさらされたこともあった。穏やかに生活する場所を奪われ、今は福岡の地を離れて暮らす。「懲役20年という年数よりも、(被告に)事件と向き合って反省してもらうことが1番の願いです」。哲央さんはそう締めくくった。

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 どうも気持ちが悪いのは自分だけでしょうか?
 1審で7年6ヶ月が2審では20年になった。ってこれだけ差がある判決ってことは、もともとどこかおかしいのではないでしょうか。最近の司法判断はなんか信用できないというか、芯があるのかと疑いたくもなります。こんな競馬ゲームのような司法で本当にいいの?
 犯した罪は一つのはずです。それに対する罰も本来からすれば一つのはずです。それが、7年6ヶ月と20年のかけ離れた二つの判決では、被害者も加害者も判決に人生を弄ばれかねません。
 一審から20年相当の判決が出ていれば別ですが、加害者も心の整理が付かないし、当然上告するでしょう。反省する暇もありません。
 第一、おおっぴらに、「悲惨な事故を2度と繰り返させないために」とか「いまだに飲酒運転を続けている人の背中に、ひやっとしたものを感じさせてくれる判決」とか書かれていますが、これは明らかにおかしなことです。
同じ罪に対しては万人共通公平な罰でなければなりません。それでなければ、極端な話、気に入らないから理由をつけて死刑もありになってしまいます。冤罪事件の大部分は先入観によるものです。社会への戒めや抑止のために刑罰を利用してはならないし、そんなことをすれば、まさかの時に自分に跳ね返ってくるのです。(逆に軽くすることもできます。飲酒運転で捕まった警察幹部も「どうしてそんなことをしたのかわからない」という談話だけで、その後どうなったか情報がありませんが、市役所職員などと同じ懲戒免職が当然なのに、一言もそれにはふれませんでした。自分はたぶん、免職にはなっていないと疑っています。)
 そんな権力者が、市民の意見だからといって、勝手に人気取りのような判決を出されたら、困るのです。
 裁判員制度でも事件に関係のない子供のころの写真を使うという話もおかしいと思います。罪の大小に、被害者の小さいころの生い立ちとかは、あまり関係がありません。可愛いわが子を殺された家族の感情は分かりますが、その感情を利用して罪の大小が変わるというのはおかしいことです。今回の被害者は誰が見ても可愛かったから懲役20年、それほどでもないから懲役10年。そんなことをやろうとしているのです。恐ろしいことです。
 刑罰は軽くてもいけないし、憎いからといって重くなってもいけないのです。やったことに相当する罰を公平に処さねばなりません。
 もし、重罰にするのが相当だとしても法律がなければ、法律を制定したり改正し、次回からの適用となります。今回は、危険運転罪ができてそれを適用するかしないかの判断の分かれ目だったのですが、1審は故意の立証が難しいからと危険運転罪の適用を慎重にして、過失致死と何やら罪を混ぜて、それでも7年6ヶ月を勝ち取ったのです。
 それを今更、危険運転罪の適用を認めるとなれば、最初の方針が間違っていたことになります。そういうあいまいさが怖いと言っているのです。1審の段階でみんなこれはひどいと思っていたのに、検察が危険運転罪を取らなかったのです。なのに何故というのが自分の疑問です。これでは、三審制の意味がありません。
 
 一つだけ言える事は、7年6ヶ月の判決に対して、被告が控訴したということです。この場合、被告には罰をうけいれるしか選択の余地はなかったのではないでしょうか。それを受け入れても、原告だけが控訴したというなら、この判決は本当にいただけませんが、被告も控訴している、ということは一審の判決は認めませんという意思表示です。最初から調べなおしてください、といっているようなものです。これは、軽くなることもあるかも知れませんが、重くなっても文句は言えないような気がします。もともと悪質だったのですから。(それでも、被害者の車が急に止まったからだと弁護団は主張したとか)
 どんな判決でも素直に受け入れる反省の態度は最低限必要だったと思います。出所してからも一生償わねばなりません。控訴は徹底対決、無実を主張しているということで、そこからは反省は生まれません。そこで「いまだに飲酒運転を続けている人の背中に、ひやっとしたものを感じさせてくれる判決」という考えが出てくるのです。懲らしめのための厳罰です。こんな裁判では、ちょっとこれからが心配ですが、そう心配させて犯罪を犯すとどうなるか分からないから、犯罪を罪を犯すことのないよう気をつけなさいと、わざと情けない裁判をしているのかもしれませんね。
 「懲役20年という年数よりも、(被告に)事件と向き合って反省してもらうことが1番の願いです」これが悲しみを乗り越えた人間の知恵を示す正しい見方だと思います。