「節談説教」というこのすばらしい芸をどう捉えるか。もうすでに芸と言ってしまっていますが、説教よりも芸能と見たほうがいいのかも知れません。誰もができることではなく、明らかに技能だと思います。
 そこに、御法義をたっぷりと加えて、情感にうったえる、聞く人が感動する。という仕組みは一つの約束ごとのような気がしてきました。
 関山和夫先生は、説教に力が入ってきた時、自然に節がついて出てきてしまったのが節談であり、あくまで説教が主であると言っておられます。
 しかし、今現在聞きたい節談説教師さんがどれだけいるか。説教に力が入ってきた時、自然に節がついて出てきてしまう説教師さんがいるだろうか。説教なら普通の説教でも聞きたい人は沢山います。
 節談説教師さんには節付けの心地良さ、醍醐味を味わわせてもらいたいのです。ということは節付けに精進してもらいたいのです。
 もちろん内容もです。古典でも名人の話なら2度3度と聞くことも楽しいのですが、節談のように芸能色の強いものは同じ話を繰り返し聞かせるにはかなりの力が必要だと思います。そのためにも節をしっかり勉強する必要があるし、今は古典ネタの節をそっくりそのまま覚えているはずです。
 そして、聞かせる才能のない人は節談にはむかないということになるのだと思います。底辺が圧倒的に少なすぎます。伝統とか言って偉そうにしていると新しい人が育たず、また飽きられて見向きもされなくなるでしょう。できればM-1のように、F-1をやるべきです。
 いつも思っているのですが、現代の節談台本ができないと、古典だけではこの変化の激しい時代に残ってはいけません。「蝋燭の煤によって提灯から出てくる明かりが暗いように、煩悩の煤によって仏の智慧の明かりが見えない」とかは、提灯とか蝋燭とかにピンとこない人が増えてくるでしょう。歩くは自力の難行道、船に乗って行くは易行道の譬えとして決まっていますが、よく考えてみると新幹線も飛行機も無かった時代の譬えです。今の人にとっては船旅は豪華客船ならいざ知らず、快適とは言いがたいでしょう。この世を海に譬えるのも、船との対応関係からだろうと思います。もっといい譬えは無いのだろうか。
 船の甲板は広く、乗っていると感じさせない意味もあろうが、船という言葉には歩きに対する比較がこめられており、それだったら船以上の譬えがあってもおかしくないと考えるのは、考えすぎであろうか。そうやって少し考えていたら、目的地に行く手段を探しているわけであるので、しかも一足飛びで…。
 あった。『どこでもドア』だ。これは親鸞聖人でも考え付かなかっただろう。不思議な手段で一瞬にして目的地に着く。横超だ。しかも、これより簡単に目的地にいける方法は絶対にない。「弥陀の不思議のはたらきをいただいた者は、『どこでもドア』によって、いつでも浄土に往還できる。」
 存在するものを譬えに使う、空想のものを考案して譬えに使う。仏法不思議の世界ではどちらもありのような気がする。自分が納得でき、みんなに共感を持ってもらえるなら。「あると思います。」といったときに「ない。ない。」と言われないようにできるだけ考えることである。みんなが泣けるほど感動する譬えを考えること、それが説教師の仕事と言ってもいいのではないだろうか。
 笑いがない説教は辛い。しかし、自虐他虐ネタは感心しません。それで笑っている人もいますが、何か嫌な感じがします。センスの良い軽い冗談で飽きさせない。さらにいえば、そこに意味深な考えさせられるテーマ(これこそ法話の目的なんですが)が隠されている。あとで、そうだったのかと気づかせる。
 そんな説教があったら、ぜひ聞いてみたいと思います。
 説教師さんにもイチローのような天才がいます。話芸ではなく説教の天才です。目の付け所が違うし、同じ話でも自分のものにして相手に分かりやすく説くことができる。そんな貴重な才能をもった説教師さんがまだまだ沢山います。ぜひ感動の説教(説教師さん)に多く出会いたいものです。(すでに何人か出会っています。感謝。)