「自分は自分であればいい」とか「自分は自分に成ればいい」をもう一度考える。
 以前、それらのことが親鸞聖人の教えのどこから言えるのかという疑問を発した。その後、常々何か違うというこの違和感がどこにあるのかわからずに煩悶していた。
 簡単なところでは、阿弥陀経の青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光で確かに言っている。また、釈迦は「唯我独尊」と仰った。しかし、親鸞聖人の例はわからない。

 「自分は自分であればいい」ということは、自分は自分、他人は他人、他人に惑わされずに「あるがまま」の自分でいいということか。「あるがまま」は日本人好みだそうである。
 「自分は自分に成ればいい」に関しては意味がわからない。自分とは何かがわからないのに、その自分に成れるはずがない。目標がわからない。もしくはどんな状況下でも自分は自分と言えるので、すべて正解というようなものである。それは癒し(ごまかし)以外の何ものでもない。数学の0÷0のようなもので、答えは不定である。やっとそのごまかしに気が付いた。
 多分、「自分は自分であればいい」=「あるがまま」という等式が「自然」ということと結びついているのではないかと思う。「自然法爾」はたしかに、「自分は自分であればいい」を含むであろう。間違いではないと思う。しかし、親鸞聖人の「自然法爾」の思想を基にして、「自分は自分であればいい」と言ってしまったのではあまりにも薄っぺらい。まだまだ考えなければいけないであろう。

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 ところで、昨日の「あるべきようは」から、思ったことではあるが、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」とは、「青色のものは青色の光を、黄色のものは黄色の光を、赤色のものは赤色の光を、白色のものは白色の光を発している」と一物体の性質を現していると考えると、諦めにもつながる。いわゆる宿業の思想である。自分はこれは避けたい。
 『「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとする』ものであると述べているということがヒントになった。
 青、黄、赤、白色等に光る物体が、各々一つ不変にあるということではない。人間の心は一人の人間の内でいろいろと変化する。青、黄、赤、白色等に変化するその時々に応じて、その時々のありようがある、と受け止めると、‘諦め’ではなく‘変化の歩み’が始まるように思う。そう思えたときに、何となく喜びが…。
 こんなことが仏法の味わいであり、醍醐味だと思っている。
 思考とは安上がりな趣味である。