蓮如上人御一代記聞書138に「前々住上人(蓮如上人)、仰せられ候う。『神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞ』と、仰せられける。『如来・聖人(親鸞聖人)・善知識にも、なれ申すほど、御こころやすく思うなり。馴れ申すほど、弥(いよいよ)、渇仰の心をふかくはこぶべき事なる』由、仰せられ候う。」と、あります。
 蓮如上人は「神」という言葉を使っています。「神」についてどう思っていたのでしょうか。「神」と「如来・聖人・善知識」とには今、一線があると思っているのではないでしょうか。一線といっても心の中のことですが。
 あまりに「如来・聖人・善知識」を持ち上げすぎてしまうと、ずっと手の届かなくなる存在になってしまう。今、そのようになっているのではないか。「神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞ」と揶揄して、馴れれば、気安くなり、さらに打ち解けようと思う心が出てくる。「如来・聖人・善知識」に馴れることが、もっと深く付き合いたいという心になるのだ、と説いているように解釈できます。
 揶揄だから「神」でないといけないのだと思います。そして、それぐらい「仏」にも馴れて見ろという、蓮如上人特有の機知ではないのでしょうか。
 そして、またまた、「神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞ」を馴れたら緊張感を失い、いい加減になると説法で説かれることが多いのですが、どうも反対のようです。「神を恐れぬように馴れる」ほど「仏」にも馴れてくれよ。
 今も昔も、仏法嫌いは多かったようで、違うのは坊さんが、手ですべきことを足でするくらい親しんでくれと言って、仏法に誘ったかどうかということらしいと悟った次第です。
 なお、本願寺派聖典には、『神にも仏にも馴れては、手ですべきことを足にてするぞと仰せられける。』となっています。この文の「神にも馴れて…」単体では、おかしいと思ってしまうので「仏」を入れて整合をとったのかも知れませんが、これでは意味がなくなってしまいます。
 蓮如上人の原本がどうなっているかはわかりません。
 でも、「神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞ」でなければならない理由があったということです。