• えらがったり、怖じけたりすることなく、すべて、なるままに自然にふるまうべきである。自己にそれだけの実力がないのに、それがあるように見せたがるくせはもっとも悪い。
  • 人を悪く思うのは、自分が悪いからだ。天地をせまく感じるのは、自己が狭いからだ。
  • 表面からみて、善だとか、悪だとか、憎いとか、かわいいとかいうのは、みな、自分の身びいきからに過ぎない。浅はかに、人間ごころで、善悪正邪観に執着してはいけない。
  • 根本において、相互に好意をもち合うことが、いちばん簡単で、いちばん徹底した礼儀だと思うこの真の意味の礼儀が行われさえすれば、世の中は期せずして楽しく、暢びやかに、ありがたくなるであろう。
  • 軽侮、怨恨、私情、悲観などは、あたまから絶対にいけないときめてかかるべきである。
  • 自分のごとく他人をあらしめようと思うのは間違っている。その人はその人として、あるべきようになったらいいのである。

(「生きがいの探求」より引用 つづく)

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 「あるべきよう」は明恵上人を意識しているのか。非常に仏教を勉強していると思う。このあたりに、違和感なく教えが受け取れる何かがあるようです。以下は参照のために引用します。

明恵は、「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を座右の銘にしていたといわれている。「栂尾明恵上人遺訓」には、

 『人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。』

 とあり、貞永式目の精神的バックボーンをなすものとも言われている。この意味するところは、たいへん深いものがあるようだ。

 河合隼雄は、その著作「明恵夢を生きる」で『「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとする』ものであると述べている。何でも受け入れる母性的な「あるがままに」でもなく、肩肘張って物事を峻別しようとする父性的な「あるべきように」でもない。白と黒、善と悪、都市と田舎、大企業と中小企業・・・・。どちらかに偏してはいけない。違いを認めながら共和する心が大事だという、古代から連綿と続いている歴史的な知恵と相通ずる思想である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/1honmyou.html