• 自己に素因のないものごとを、人は感じることはできない。素因というものは、その人の過去または現世において実際に体験した因縁である。
  • 見よう聞こうとあせらなくても、その位置にさえ進めば、自然に見え、自然に聞こえてくるのだ。世の人々は、適当な位置にわが身を進めるという先決問題を忘れて、いたずらに、見よう聞こうとあせっているのである。
  • 望め、為せ、省みよ、悟れ。
  • 要するに何事でも体験してみなければわかるものではない。真の財産は体験、体得のみである。その意味からいって、われわれは何をしていても、させられていても「ありがたい」のであり、結構なのである。
  • この世に、善というのは、一般人類のためになる行いであり、悪とは一人の利となる行いである。
  • 「われ」というものは、生まれたときからずっと同じものであるかのように思いがちであるが、「われ」は決して一定不変のものではない。真の「われ」は今の「われ」であって、その前後のものは、ただその前行者、もしくは後行者にすぎない。この意味において、人は今のベストに生きるべきであって、真の幸福はここに存する。刹那刹那にベストを尽くし、無限に、より真に近づいていくことに無限の愉楽がある。 
  • 自分の得心せぬことには従事してはならない。信仰はなおさらのこと、強いられたり、せまられたりしてはならない。
  • 「おのれ、見ておれ!」とか「今に仕返しをしてやる」とかいう気持ちは、この世からなくしたいものだ。復讐的気分は、世の中をいつまでたっても、おだやかに美しくしない。これからいっても、いっさいの勝負事は人の心をますます利己的にし、何かにつけてこの世を濁すばかりだ。遊戯などでも、自分も楽しく、他人も楽しいというようなことのみにならなければならない。
  • 人間はちょっとしたことに悲しみ、ちょっとしたことに喜ぶものであるから、ちょっとしたことを注意しなければならない。

(「生きがいの探求」より引用 つづく)