「満之真導会」と言う勉強会に出席させてもらった。
 その中で源空上人選択付属御影の紹介があった。今年の4/26〜5/25まで「三河念仏の源流」という特別企画展が行われ、図録パンフのp79に写真が載っている。
 「親鸞は、元久2年(1205)に法然の主著である『選択本願念仏集』の書写ならびに法然から「申し預かった」真影の図写を許された。『顕浄土真実教行証文類』末尾(後序)によれば、同年閏7月29日、図写した肖像画に「南無阿弥陀佛」と『往生礼讃』の本願加減文47文字を法然に自筆自賛してもらったという。『親鸞伝絵』は、その出来事を「選択相伝」と描いている。親鸞見写の『選択集』は現存しないが、その時に図写したものと唯一伝承される肖像画が本像である。」
 と解説してある。解説の最後に、「ともかくも法然から親鸞への選択相伝に関する唯一無二の最高にして最難な遺品である。なお、本像は、妙源寺虫干法会の本尊として開帳される。」と書いてあったので、講師の谷田暁峯先生は先月虫干し法会に行かれたとのことでした。しかし、残念なことに今年は開帳がなく、是非見たいので来年の4月にまた来る約束を了承してもらったと言っていました。
 さて、谷田先生がこの肖像画にこだわるのは、解説にもあった教行信証p399後序に出てくる話の実存する証拠に一目遇いたいということだと思う。
 「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の歴、雑行を棄てて本願に帰す。元久己の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第4日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図絵し奉る。同じき2年閏7月下旬第9日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。」と悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す、とある。
 その一端を垣間見ることのできる資料に縁あってお遇いできるなら是非ともということであったのだ。自分は資料を持っていても、宝の持ち腐れで、何の感動も出会いもなかった。実際に展覧会も見てきて、貴重な体験をさせて頂いたとは思うがそれほど印象はない。何故かと考えてみると、それだけの経験をしていないのであろうと思う。谷田先生は自身でも仲間とも、この教行信証の後序を何度も受け止めて、この歴史の一場面が感動の場面だと味わわれている。自分も目では見ているのではあるが、深く考えたこともなかった。だから、体解する余裕もない。今回の勉強会は、もう一度その意欲を掻き立てるいい機会ともなった。最後に「気張ってください」と言われた先生の言葉を、良い意味でとらえて「気張っていこう」と思った次第です。

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 上の記述で元久2年(1205)に夢告に依り「綽空」の名を「善信」と改めたとある。これらは法然上人が親鸞に付けて下さった名前で、法然上人が真筆で書いてくださったとある。この夢告がどういうものか議論が分かれるらしいが、「建仁3年辛の酉4月5日夜寅の時、…」で始まる六角告命の「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」の夢告だとすれば、名前を変えたのと妻帯が関係するのではとの指摘があった。御伝鈔では建仁3年と書かれているが、辛の酉は建仁元年であるので、どちらかを誤認している。御伝鈔の前段吉水入室では、その年を建仁第3の歴春のころ、と完全に誤記している。それで夢告も建仁元年の間違いではないかと言われる。
 改めて纏めてみると、吉水の法然の門下に入室したのは1201年その時「綽空」の名を頂く。女犯偈の夢告が1201年か1203年、「綽空」の名を「善信」と改めたのが1205年ということになる。1204年の「七箇条の制誡」には綽空と自筆でご署名されている。
 昔は元服(成人)すると幼名から名を変えた。名前を変えるということは、ある意味今までの自分を棄てて(変わって)新しい自分になるときに行われる。法然親鸞の師弟関係の中で、勝手に妻帯をする筈がない。法然上人に相談したところ、念仏の妨げにならなければということで、あるいは玉日姫伝説では法然上人が指名して、親鸞は妻帯することになった。そのときに、付けられた名前が「善信」ではなかったのかと言うことであった。納得できるストーリーである。
 ただ、自分は善信房綽空という名前だと思っていたので、全く疑問を持たなかったのである。安楽房遵西は安楽と現されている。この○○房という名の意味付けはどうなっているのか、まだ理解していない。
 全くの余談であるが、承元の法難で死罪となった安楽房は、「選択本願念仏集」の執筆者でもある。法然上人は表題以外「選択集」を書いていない。弟子数人で撰述に携わり、選ばれて安楽房が執筆していたが、途中で驕慢な言葉を洩らしたので、第3章から感西と変えられてしまった。
 このあたりも吉水の教団が、立派な僧侶集団かと思えば、現代の集団とあまり変わらない、人間がやることは時代が変わっても似たり寄ったりという感じもして、逆に親しみがもてる。そんな中で親鸞聖人は、至福の一時を過ごしたのであろう。

 もうちょっと、いろいろ知りたくなって来ました。今日はこの辺で…。