同朋新聞の8月号に「帰敬式を受けて始まる真宗門徒の生活」という題で池田勇諦師のお話しが載っていました。
 出だしに『帰敬式を受式しても何かが変わることはない。けれども、受式したことにおいて、「このままではだめだ、そこに一つのことが始まらなきゃならんのだ」という問題意識が与えられた。…中略…
 帰敬式を受式しても、人間の煩悩ということから言えば何も変わらない。けれどもただ一つ、ものを見る視座が変わる。その意味で今までの世界がひっくり返るというか、新しい世界がそこに開かれる。そうでないと、帰敬式も単なる形式で終わってしまう。それは今までの私のあり方を繰り返し問い返していくということが始まる。だから、いよいよ聞法が始まります。』

 と出ています。
 真宗では、「このままではだめだ、そこに一つのことが始まらなきゃならんのだ」などと言うと異端視されてしまう雰囲気もあるのですが、池田勇諦師は「一つのこと」を「ご本尊中心の生活、お勤めをするということ」が大切なことだと言って整合性を取っています。その一方で、「ただ一つ、ものを見る視座が変わる。その意味で今までの世界がひっくり返るというか、新しい世界がそこに開かれる。」とも言っています。

 私は、始まる一つのことが、「ものを見る視座が変わる。その意味で今までの世界がひっくり返るというか、新しい世界がそこに開かれる。」ということを全面的に支持します。まさしく「こころの寺」はそこを目指しています。

 高橋佳子という人が、その著書「新しい力」の中で”ビッグクロス”という言葉を使用しています。彼女の造語です。「南無阿弥陀仏」も元を正せば、発明者の造語とも言えるのではないでしょうか。真理のイメージはどんな言葉でも表記できません。ですから、いろいろな方法(方便)をもって共通の認識が出来るように考えられたのだと思います。
 崇高な感情とか、時を越える永遠のかけらを感じていても、それを言葉で説明することが難しいのです。そのような物を「南無阿弥陀仏」と称して「南無阿弥陀仏」イコール説明できないものを表す言葉としているようにも見えます。事実、不可説、不可思議なものだと言われます。そうすると、それを自分なりにイメージできる言葉を考えて理解するようにするしか、納得できないでしょう。そのような思考を続けることによって、自分の考えがまとまり、それを他の人にも説明できるようになるのでしょう。これらのことが、自分にとっての真宗を考える上での、真宗の枠に捉われずにものを見る視座が変わるということです。
 仏教というものを考えたときに、真宗とはどういうものなんだろうか?そんな基本的な疑問から再出発している今日この頃です。