内田樹釈徹宗著「インターネット持仏堂2」のp23に、「『欲求』と『欲望』の違い」としてそれらの定義が書かれていた。
 『欲求』とは、本来あるはずのものが欠如した状態。「欲求とは本質的に郷愁であり、ホームシックである」言い換えれば、私たちが何かを「欲求する」と言うとき、私たちはすでに自分に「何が」欠如しているのかを知っている、ということです。
 これに対して『欲望』とは、欠落があることは確かなのだが、何をもってその欠落を埋めることができるのか、そもそも自分が何を求めているのかを言うことができない、というような欠落の仕方のことです。「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」

 このことを知って、以前抱いた疑問の答えが見つかった気がした。「煩悩の貪欲(我欲)」と「浄土に生まれたいという欲」との違いはどうなんだろうか?自分だけ極楽浄土に生まれたいと願っているとしたら、それはそれで勝手な欲ではないかと考えていたのですが、適当な答えは見つかりませんでした。見て見ないふりをする、考えないようにするのが賢いかな程度に思っていました。
 しかし、上記のように「欲望」と「欲求」を分けると、「浄土に生まれたい」は欲求に近い願いだと言うことが分かります。そう気が付いてみると「欣求浄土」と「求」という字を使います。教えてもらえば簡単な疑問なのですが、出会うまで分からないということも結構あります。
 最近、法話に興味が薄れてきたのも、どうもしっくりくる話が少なくなってきた(自分が思ったり考えたりすることは客観的ではない可能性も多いにあるが、なるべく俯瞰した位置で仏教を見ていきたい)からかも知れません。うまい現代の法話システムが形成できないものか。(自分のことで言うともっと根本知識を貯えないと応用も出来ない)その為には、常識だと思っていた法話にもう一度メスを入れて、初心者でも納得のいく(心を打つでもいい)何かを発信できるようなものを目指して行きたいところです。