「わたしひとりの親鸞古田武彦著 毎日新聞社
 昭和53年に発行された本です。この古田氏の親鸞聖人を思う思いは正直というべきか、そして過激なまでに激しい。古田氏は本などをいくら読んでもダメで実践活動に入らねばと考え、朝も晩もひっきりなしに念仏を唱えたそうです。しかし、そのうちにこのお唱えを断念しました。「念仏」に切実さが無かったからです。「猿真似」の空しさがいつもあったと言っています。それ以後一回も念仏を唱えたことが無いそうです。親鸞聖人を深く愛していたが故に、聖人の切実さを持たずして、いたずらに念仏を唱えることは一種の冒涜のようにさえ感じられたからです。「ただ念仏」と言ってみても、およそ親鸞聖人のいう「ただ念仏」とは、言葉のみ同じで、その質を全く異にしているのです。
 最初に読んだときにこれほどまでの思いを持って接している人がいるんだ、そうだそうでなくてはと納得していましたが、今これを書いていて、何か変だぞという感覚に見舞われました。自分が別時念仏をするときでも、どことなく落ち着くし、緊張する場面では念仏もよいものです。「切実さ」を求めるところに無理があるのかも知れませんが、念仏が出てくるという自然体の感覚がないのではと思います。唱えるという言葉を使っているところからもかなり自力が混じっています。自力の念仏では、喜びというものには出会えないということを証明しているのかも知れません。
 しかし、極端な自説を主張して、私はこう思う、私はこうやってきた、大学の教授陣のおっしゃることはおかしいと言う論説を読んだり、聞いたりすることはかなり刺激になります。
 古田武彦氏の格率(行動の規則、論理の原則)は、
 『わたしがそうだ、と思えることだけを、そうだと思い、わたし自身にそうだと思えないことは、誰が何と言おうとも、そうだとは思わない。』だそうです。自灯明ということ?氏の書いた文章には親鸞とあり、聖人はついておりません。純粋に思想に惚れたようです。